(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
栄西 |
旧7/5 |
建保三年(1215) |
明庵栄西。鎌倉前期の禅僧、日本臨済宗の祖。(生)備中。今は陽暦6/5、建仁寺開山忌。茶を栽培し、「茶也、末代養生之仙薬、人倫延齢之妙術也」と医学効果をとく「喫茶養生記」を著した。 |
売茶翁 |
旧7/16 |
宝暦十三年(1763) |
高遊外。江戸中期の禅僧(黄檗宗)。(生)肥前国蓮池。茶を売り、自ら茶道具を荷って席をもうけ風流の客を待ったので売茶翁と呼ばれた。 |
文覚 |
旧7/21 |
建仁三年(1203) |
鎌倉前期の真言宗の僧。俗名遠藤武者盛遠。荒聖人。浄瑠璃・謡曲・戯曲の題材として有名である。 |
角倉了以 |
旧7/21 |
慶長十九年(1614) |
安土・桃山時代の豪商・海外貿易家。豊臣秀吉から朱印状をえて、アンナン・シャム・ルソンなどに貿易船を派遣、角倉船は了以死後も子素庵に継承されて鎖国までつづいた。末次平蔵・茶屋四郎次郎とともに代表的朱印貿易家。また国内の河川交通路の開発に力を入れ、1606(慶長十一年)大堰川を開いて丹波国の世喜村と嵯峨とを結んだのをはじめ、富士川、賀茂川を開疏、さらに高瀬川を開通して京都二条から伏見に通ずる水路もつくった。 |
世阿弥元清 |
旧7/22 |
嘉吉三年(1443) |
世阿弥。室町時代の能楽者・謡曲作者1374(文中三年、応安七年)父と共に京都今熊野神社において3代将軍足利義満の前で舞い、認められ、以後その支援をえて、二条良基ら当代一流の文化人との交流をつうじて芸道・学問に精進し、急速に名声をたかめ、〈乞食の所行〉とさげすまれてきた猿楽を室町時代の代表的芸能にまで押し上げる功績があった。幽玄美の追求と理論化を根本にすえて能楽(猿楽能)を大成した。茶道史上における千利休の位置に匹敵し、後世の文化・思想面への影響は深甚であった。代表的著作に「風姿花伝」など。 |
太田道灌 |
旧7/26 |
文明十八年(1486) |
室町後期の武将。1457(長禄一年)江戸城を築いた。古今の兵書を読み、世に〈軍法師範〉と称され、とくに〈足軽の軍法〉を得意としたといわれる。和歌にも通じ、建仁寺の僧や万里集九らを江戸城に招いて歌の会を催した。 |
飯尾宗祇 |
旧7/30 |
文亀二年(1502) |
室町時代の連歌師。若年で上洛、臨済宗相国寺で修行。30歳のころから和歌、連歌に没頭し、叔父の高山宗砌の指導をえ、ついで心敬・専順から学び、また一条兼良・東常縁から、古典・有職を、飛鳥井雅親からは詠歌を学んだ。禅院生活をすてて、40歳代には洛西嵐山・洛東白川の地に庵を結び、連日連歌の苦吟を重ね、しだいに正風連歌の典型といわれる作風をととのえていった。のちに自分ほど独吟した者はいないと三条西実隆に述懐したという。1466〜73関東にあり、長尾・太田氏らの武将に連歌を指南。`78越後上杉・越前朝倉氏を歴訪。`80大内氏の招きで周防・筑紫に遊ぶ。60歳代なかばの`87ごろには、その連歌の才は宗砌を凌ぎ、公家をはじめとするすべてが弟子の礼を尽くして古典の講釈を請う、とまで評された。後世〈旅の詩人〉とうたわれ、松尾芭蕉は西行・雪舟・千利休と並べて彼を自分の先達の一人に数えた。生前の親友に村田珠光(茶人)・志野宗信(香道)があった。 |
柳田国男 |
8月8日 |
昭和二十七年(1952) |
明治・大正・昭和期の民俗学者。(生)兵庫県。青年時代、田山花袋・島崎藤村・国木田独歩らと交わり新体詩人として知られた。他方、民間伝承に関心を傾け、早くから全国を行脚し、山間辺地をも訪ね、`09日本民俗学の出発点といわれる「後狩詞記」を出版。以来、「石神問答」「遠野物語」「山島民譚集」はじめ多数の著書を出した。また`13「郷土研究」、`25「民俗」などの雑誌を刊行・主宰した。`35〈民間伝承の会〉(日本民俗学会の前身)、`47〈民俗学研究所〉の創設などにより、日本民俗学の樹立・発展につとめ、〈柳田民俗学〉をうちたてた。 |
前田普羅 |
8月8日 |
昭和二十九年(1954) |
大正・昭和期の俳人。(生)東京。横浜裁判所勤務、時事新報勤務を経て大正十三年報知新聞支局長として富山市に赴任、以後二十余年をこの地で過ごす。昭和4年より俳句専業・大正期、蛇笏、鬼城、水巴、石鼎などと共にホトトギスで活躍、特に山岳を詠んだ俳句では頂点に立つ。「辛夷」主宰。「普羅句集」「春寒浅間山」「飛騨紬」「能登青し」「定本普羅句集」、棟方志功との版画句集「栖霞品」。 |
三遊亭円朝 |
8月11日 |
明治三十三年(1900) |
幕末・明治期の噺家。(生)江戸本郷。道具を使う芝居噺・怪談噺で人気を得る。高座は派手で老若男女の声色をよく使い、それまでの落語に対して新しい演じ方とされたが、円朝以後は多くの落語家がそれをまねた。創作をよくして長編の人情噺や落語を作った。明治における講談速記本の流行は、1884(明治17)に発売された円朝作の「怪談牡丹灯篭」にはじまる。文芸における言文一致運動の推進者二葉亭四迷は円朝の速記本を高く評価した。明治落語界最大の人物とされ中興の祖といわれたが、「塩原多助一代記」「新景累ヶ淵」その他ほとんどの創作は封建道徳支持の立場から作られている。明治になって山岡鉄舟の知遇を得て禅に帰依した。死後も菩提寺東京台東区谷中の全生庵に山岡と墓標をならべている。毎年8月11日の命日には全生庵で円朝忌がもよおされている。 |
渡辺水巴 |
8月13日 |
昭和二十一年(1946) |
大正・昭和期の俳人。(生)東京。父は日本画家の渡辺省亭、俳句専業。鳴雪のち虚子に師事。ホトトギスの代表人物。季題趣味の情緒を江戸趣味的な瀟洒な情緒を土台として唯美的な作風を見せる。「俳句草子」。後に「曲水」を創刊主宰。「富士」「水巴句集」「隈笹」「白日」「新月」。 |
島崎藤村 |
8月22日 |
昭和十八年(1943) |
明治・大正・昭和期の詩人・小説家。(生)長野県。伝統的な詩語や韻律を生かし主我的感情の解放をうたいあげた「若菜集」は浪漫主義の最初の芸術的開花として文学史上記念すべき詩集となった。浪漫派詩人として大きな業績を残したのち、散文に転じる。「破戒」「春」「家」等のすぐれた長篇や短篇集・童話集・感想集が多く発表され、自然主義の代表的作家として知られた。`29(昭和4)から「夜明け前」を「中央公論」に連載、`32に第1部、`35に第2部が完成。父をモデルとした主人公青山半蔵の悲劇的な生涯と明治維新史の流れを描いたこの小説は、自伝的な藤村文学の集大成であると共に規模雄大な歴史小説としてすぐれたものである。`41芸術院会員となる。木曽馬篭に藤村記念館(1952開館)、小諸に市立藤村記念館(1958開館)がある。 |
釈迢空 |
9月3日 |
昭和二十八年(1953) |
大正・昭和期の国文学者・歌人。折口信夫の筆名。(生)大阪。1916(大正5)「口訳万葉集」を、`19「万葉集辞典」を刊行、万葉学者として知られた。柳田国男に私淑、`21の沖縄旅行をはじめ各地の民間伝承や民俗芸能の採集調査旅行を盛んに行う。国文学者として古代研究や芸能史研究などに新分野を開いた。 |
巖谷小波 |
9月5日 |
昭和八年(1933) |
明治・大正期の小説家・童話作家。(生)東京。1891(明治24)創作童話の嚆矢として史的価値をもつ「こがね丸」を発表し新生面を開いた。`94博文館に入社、「少年世界」の主筆となり同誌に毎号少年文学・おとぎ話を執筆し、人気を集めた。また古典お伽話を集大成した「日本昔噺」(`94〜`96)や「日本お伽噺」(`96〜`98)を出版。 |
泉鏡花 |
9月7日 |
昭和十四年(1939) |
明治・大正期の小説家。(生)石川県金沢市。尾崎紅葉の指導を受けて小説を勉強。自然主義的散文精神が文壇を風靡した時代にも超然と彼独自の文学の世界を守った。すなわち、紅葉から学んだ写実的手法、虚構の美を求める浪漫的情緒、彫刻的にねりあげられた独得のリズムを持つ文体が渾然一体となって鏡花文学が創りあげられている。`07の自伝的小説「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。`10「歌行燈」は代表的傑作とされる。`37(昭和12)芸術院会員。 |
吉川英治 |
9月7日 |
昭和三十七年(1962) |
昭和期の小説家。(生)神奈川県。`26から「大阪毎日新聞」連載した「鳴門秘帖」で大衆文壇にゆるがぬ地位を得た。`32(昭和7)大衆文芸研究誌「衆文」を刊行。`35(昭和10)から`39まで「朝日新聞」に連載された「宮本武蔵」は広い読者を獲得した。敗戦後も「高山右近」「平将門」「新・平家物語」「新水滸伝」「私本太平記」など衰えぬ筆力を示し、`60文化勲章受章。死の直前、吉川英治賞が設けられた。青梅市に吉川英治記念館(1977開館)がある。 |