(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
荒木田守武 |
旧8/8 |
天文十八年(1549) |
室町後期の神官・連歌師。伊勢内宮の怱禰宜、連歌の名手。本格的な連歌とともに俳諧連歌にも力を入れ、百韻・千句に傾注した。1536(天文5)に始めた「俳諧之連歌独吟千句」(独吟千句・飛梅千句)を`40完成。後世の俳人から、山崎宗鑑と並ぶ俳諧の始祖と仰がれた。世人の戒めのために詠んだ教訓歌集は俗に〈伊勢論語〉の異名で知られ、守武の人柄をしのばせるが、他に笑話を収めた「守武随筆」もある。 |
呑 龍 |
旧8/9 |
元和九年(1623) |
江戸前期の学僧。(生)武蔵国岩槻。1613(慶長18)徳川家康により上野国太田の大光院が建立されるとその開山となった。`22(元明8)紫衣を賜った。子供の教育に尽力したので、のちのち〈子育て呑龍〉として親しまれた。 |
炭 太祇 |
旧8/9 |
明和八年(1771) |
江戸中期の俳人。(生)江戸。宝暦年間(1751〜63)の初め頃、京都大徳寺の真珠庵に入り、禅生活を送る。この間、常に酒を愛し、役者と交際するという風であったという。まもなく真珠庵を出、島原廓内に起居し、呑獅、雅因、楓川等の俳友とともに俳諧三昧に過ごした。人事趣味と煙霞趣味をあわせ持った作風である。 |
井原西鶴 |
旧8/10 |
元禄六年(1693) |
江戸前期の俳諧師。浮世草子作家。(生)大阪。作品は、「好色五人女」「好色一代女」「日本永代蔵」「世間胸算用」などが有名。 |
山口素堂 |
旧8/15 |
享保元年(1716) |
江戸前・中期の俳人。(生)甲斐国巨摩郡。〈目に青葉山ほととぎす初鰹〉で知られる。北村季吟に入門。同門の松尾芭蕉と親交を結び、「虚栗」の編集に大きく寄与した。 |
豊臣秀吉 |
旧8/18 |
慶長三年(1598) |
豊臣政権の主権者、関白。(生)尾張国愛知郡中村。1553織田信長の草履取となり次第に重用される。信長の事業を継承発展させ、大名の減封・転封を強行して専制権力の確立に成功。また都市豪商との提携・貨幣統一・兵農分離・太閤検地・石高制などの施行によって幕藩体制の基礎をつくった。その豪奢遊楽の気質が桃山芸術を開花させた。 |
藤原定家 |
旧8/20 |
仁治二年(1241) |
鎌倉前期の歌人・歌学者。幼少より歌才に抜きんで、10子をかぞえる兄弟の中で歌の家御子左家を継ぐべく父に嘱望された。25歳頃から九条家の家司となり生涯その庇護を受ける。1196(建久7)の九条家の政治的失脚と前後して作歌にも行きづまり、苦悩の時代を送る。40歳で、父の必死の庇護である「正治奉状」により歌壇に復活してから歌風を飛躍させ、幽玄体を越える有心体を確立し、さらに後鳥羽上皇の和歌所寄人となり、「新古今集」の撰者に挙げられ名声は不動となる。59歳で後鳥羽の勅勘を蒙ったが、承久の乱後は主家とも順調に推移して、正二位中納言を極官とし、71歳で「新勅撰集」を撰し歌壇に君臨して生涯を終わった。 |
一 遍 |
旧8/22 |
正応二年(1289) |
鎌倉時代の僧。時宗の開祖。1276勧進帳念仏札を携えて諸国遊行の途につく。念仏札には南無阿弥陀仏決定往生60万人と記し、九州・四国・京を廻り、また信濃・武蔵・上野・陸奥・常陸・伊豆・相模など全国をくまなく行化し、念仏札を授け、勧進帳に名を記す者250万人1724人に及んだという。絵巻「一遍聖絵」「一遍上人絵詞伝」は一遍の教化遍歴の生涯を描いたもので、美術史的にも貴重な史料である。 |
吉野太夫 |
旧8/25 |
寛永八年(1631) |
江戸前期の遊女。(生)京都。7歳で京都六条柳町の林与次郎兵衛方に養われ肥前太夫の禿となり、14歳で太夫となる。当時才色最もすぐれた遊女として名高く、多くの逸話を残した。特に近衛信尋と灰屋紹益がその落籍をめぐって争ったのは有名。 |
山本荷兮 |
旧8/25 |
享保元年(1716) |
江戸前・中期の俳人。(生)名古屋。医を職とし、俳諧は椋梨一雪に学ぶ。1684(貞享1)「野ざらし紀行」の途次の松尾芭蕉に会い「冬の日、尾張五歌仙」をともに巻き、その門に入り。「春の日」「阿羅野」を編んだ。 |
森川許六 |
旧8/26 |
正徳五年(1715) |
江戸前・中期の俳人。彦根藩士。蕉門十哲の一人。蕉門の俳文を集めた「風俗文選(本朝文選)」(1706)が著名。六芸に通じているとして許六と称したように、書画など多芸で、その句風も細やかにして巧みである。 |
大伴家持 |
旧8/28 |
延歴四年(785) |
奈良時代の官僚・万葉歌人。「万葉集」に479首を残し、その編纂関係者とみなされている。防人に関する歌が有名。また有名な〈族に喩す歌〉がある。 |
道 元 |
旧8/28 |
建長五年(1253) |
永平道元。鎌倉中期の禅僧(曹洞宗)。日本における曹洞宗の開祖。1223(貞応2)明庵栄西の弟子明全に従って入宋し、5年間滞在し如浄について曹洞宗を学んだ。`43(寛元1)には波多野氏の招きで越前に永平寺僧団を開設、その間、門弟を教化しつつ、「正法眼蔵」の諸巻を書き続けた。彼は末法思想に反発して只管打座(しかんたざ:無念無双でひたすら座禅をする)といわれる座禅専修の教えを説き、そのために世俗を離れた厳しい修行を要求し、武士層の信奉を得た。その哲学は難解であるが、日本思想史の1つの頂点を形づくっている。 |
田能村竹田 |
旧8/29 |
天保六年(1835) |
江戸後期の文人画家。画風は明・清風に工夫を加え、独自に研究の結果、おだやかなうちに憂愁感を含む独特の画風を築いた。風流文雅を好み高才多能で、詩歌・文章、書画・茶・香みな通暁したという。しばしば京坂に遊び、岡田半江・頼山陽らと親交を結んだ。著書「山中人饒舌」は、すぐれた南画論として知られる。 |
乃木希典 |
9/13 |
大正元年(1912) |
明治時代の陸軍軍人。日露戦争出征中に大将になり、戦後、軍事参議官をへて1907学習院長になり、生来の精神主義をもって皇族子弟の教育にあたったが、`12明治天皇が没すると、妻シズ(静子)とともに大喪の儀式当日自邸で殉職した。軍人としてはむしろ機略に乏しかったが、その精神主義がのち〈軍神乃木〉として喧伝された。 |
若山牧水 |
9/17 |
昭和三年(1928) |
明治・大正期の歌人。(生)宮崎県。尾上柴舟に師事。歌集「海の声」「独り歌へる」を出版。1910(明治43)この2歌集に新作を加えた「別離」を出版。青春の哀歓をうたいあげた抒情歌は好評をもって迎えられ歌人として知られた。 |
村上鬼城 |
9/17 |
昭和十三年(1938) |
明治・大正・昭和期の俳人。1895年正岡子規に教えを請い、のちに高浜虚子に師事、渡辺水巴・飯田蛇笏・原石鼎・前田普羅らと並んで「ホトトギス」における代表的俳人として大正初期の俳壇で活躍した。大須賀乙字は小林一茶と対比して一茶以来の境涯の俳人であると評した。 |
徳富蘆花 |
9/18 |
昭和二年(1927) |
明治・大正期の小説家。(生)熊本県。1898末から「国民新聞」に連載した「不如帰(ほととぎす)」が単行本として出版(1900)されるや好評を博しその名を知られた。 |
石井露月 |
9/18 |
昭和三年(1928) |
明治・大正期の俳人・医師。(生)秋田県。正岡子規の知遇を得て俳句に導かれる。1900「俳星」を創刊して医業のかたわら青年を指導した。 |
正岡子規 |
9/19 |
明治三十五年(1902) |
明治時代の俳人・歌人。(生)伊予(愛媛県)松山。俳諧の新たな史的考察によって俳句革新を志した。文学としての価値を俳句に求めるとともに写生句を主張し実作で示した。
彼の下には高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・夏目漱石ら多くの知識人・学生が集まり、俳壇の中心勢力となった。子規を中心とするグループは〈日本派〉〈根岸派〉〈ホトトギス派〉などと呼ばれ、近代俳句史上多くの功績を残した。
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宮沢賢治 |
9/21 |
昭和八年(1933) |
大正・昭和期の詩人・童話作家。(生)岩手県。その一生は宗教・科学・文学・実践を通して、農民への奉仕に費やされたといわれる。また多くの童話・詩・短歌・評論が書かれたがほとんど認められることなく生涯を終えた。没後、草野心平によって全集がだされるや注目を集め、その後研究が進むにつれ価値が広く認められるに至った。 |
西郷隆盛 |
9/24 |
明治十年(1877) |
幕末・維新期の政治家。(生)薩摩国鹿児島城下の下加治屋町。〈敬天愛人〉を信条とし、人望あつく、個人的には野心をもたなかったが、不平士族に擁され、1977西南戦争を起こして敗れ、自刃した。そのため逆賊とされたが、`89罪を許され、正三位を追贈された。 |
小泉八雲 |
9/26 |
明治三十七年(1904) |
明治時代の小説家・英文学者。(生)ギリシャ。本名 Lafcadio
Hearn 。1890(明治23)来日。松江中学の英語教師となり小泉節子と結婚。`96から東大で英文学を講じ、1903の退官まで学生に大きな影響を与えた。教鞭をとるかたわら日本研究を進め、日本への深い愛情を示す随筆・研究・創作を名文で書き続けた。「知られぬ日本の面影」「心」「怪談」などの著作は有名。 |
飯田蛇笏 |
10/3 |
昭和三十七年(1962) |
大正・昭和期の俳人。(生)山梨県。在学中自然主義文学の影響を強く受け、詩や小説を雑誌「文庫」に発表したが、1906(明治39)早稲田吟社に参加。〈ホトトギス句会〉にも出席し高浜虚子の指導を受けるようになる。蛇笏の俳句に見られる小説的構想は、こうした文学的出発から生まれたといえる。河東碧梧桐らの新傾向運動に反対する俳論を書き、ホトトギス系の俊英として俳壇に重要な地位を占めた。 |