(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
安藤広重 |
旧9/6 |
安政五年(1858) |
江戸後期の浮世絵師。歌川広重。1806(文化6)家督を相続し定火消同心職につく。`23(文政6)火消同心を引退、美人画を主にして画業に専心する。`30一幽斎と改め、`32幕府年中行事の〈八朔御馬献上〉に参加して東海道を旅し、風景画・花鳥画へ転じた。`33から前年の旅の写生と各宿場の印象を基礎として「東海道五十三次」保永堂版を発表し、一躍世に認められた。その55枚の作品は広重独自のロマンチックな画趣が明瞭に示され、彼が好んで描く雪・雨・月・霧が前後の画の関連を効果的に印象づけ、一本の調和のとれた色の帯となっている。他に「東都名所」「近江八景」「木曾海道六十九次」「名所江戸百景」など多くの名作を残した。 |
大島蓼太 |
旧9/7 |
天明七年(1787) |
江戸中・後期の俳人。(生)信濃国伊那。諸国を吟行し200余部の俳書を編み、3千余人の門人を有したが、与謝蕪村の名声には及ばなかった。しかし天明期(1781〜88)の俳諧中興に尽くした功績は高く評価されている。 |
加賀千代女 |
旧9/8 |
安永四年(1775) |
江戸中期の女流俳人。(生)加賀国松任。12歳の頃から俳諧を学び、17歳で各務支考に師事。千代の婚家に関しては不明な点が多く、夫との死別後によんだ〈起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さ哉〉が伝わるが、これは千代の生れる9年前に遊女浮橋がよんだものである。〈朝顔に釣瓶とられて貰ひ水〉の一句は技巧のかった作品であるが、千代の名を著名にした句である。 |
空也 |
旧9/9 |
天禄三年(972) |
平安中期の天台宗の僧。日本浄土教の先駆者で、特に庶民の間に念仏をひろめた功績は大きい。平安前期頃の交通土木事業は僧侶が主唱して行なったが、空也もまた済民のため自ら事業を行なうとともに、常に阿弥陀仏の名号を唱え、市中を遊行して、人々に念仏を勧め、阿弥陀聖・市聖と尊敬された。京中に悪疫が流行した時その平癒を祈って東山に西光寺(六波羅密寺)を建てた。 |
向井去来 |
旧9/10 |
宝永元年(1704) |
江戸前・中期の俳人。(生)長崎。1684(貞享1)頃に蕉門に入り、榎本其角と親交を結び、洛西嵯峨に草庵を建てた。草庵は落柿舎と称し、松尾芭蕉もしばしば立ち寄っている。`91芭蕉のもとで凡兆とともに「猿蓑」を編み、芭蕉の信頼も厚く、世にいう蕉門十哲の1人に数えられる。`94芭蕉の死以後、落柿舎にあって蕉風を守り、京都俳壇に重きをなした。その句風は温厚篤実にして軽みを加え、晩年、平明の風に移った。 |
加舎白雄 |
旧9/13 |
寛政三年(1791) |
江戸後期の俳人。江戸に出て、伊勢派の松露庵烏明、ついで松露庵鳥酔の門に入る。伊勢派の卑俗さにあきたらず、北越・畿内・東北を旅して松尾芭蕉への復帰に努めた。天明期の俳諧中興五傑に数えられ弟子も多い。 |
鳥羽僧正 |
旧9/15 |
保延六年(1140) |
平安後期の天台宗の画僧。覚猷。鳥羽上皇の絶大な崇遇を受けて鳥羽離宮の護持僧になり、俗に〈鳥羽僧正〉という。僧としての履歴は1121(保安2)法印大和尚位、`30(大治5)権僧正、翌年金剛院・梵釈寺の別当を兼帯、、`32(長承1)僧正、`34大僧正・法成寺別当、翌年園城寺長吏`38(保延4)延暦寺第47世座主というようにかがやかしい。絵の名手であったことは、すでに源師時の日記「長秋記」や「古今著聞集」が伝える。園城寺法輪院で図像集成の運動をおこし、多くの絵仏師を養成した。後世に流行した鳥羽絵は覚猷の戯画の伝統を伝えたものという。 |
柄井川柳(初代) |
旧9/23 |
寛政二年(1790) |
江戸後期の前句附点者。(生)江戸。1757年40歳のとき、はじめて彼の前句附万句合が世に出た。当時江戸では前句附の流行が絶頂期を迎えようとしていた中で、彼が蝶々子・収月・苔翁らに伍して、さらに前句附の句が〈川柳〉と呼ばれるまでにその名声を高め得たのは、その人柄、指導性、経営技術などに負う所が少なくないが、何よりも大きな理由は、収月・苔翁らが旧来の伝統的地盤を守って江戸周辺の作者を含めてその対象としていたのに対して、川柳は専ら江戸市民を対象として興行したことにあった。またその名声を高めたのは、彼に協力して「誹風柳多留」を刊行した呉陵軒可有の力に負うところも大きかった。 |
頼山陽 |
旧9/23 |
天保三年(1832) |
江戸後期の儒学者。(生)大阪。1809(文化6)備後国神辺の菅茶山に招かれその塾(廉塾)の塾頭となる。`11大阪に出て篠崎小竹を頼り、ついで京都に出て車屋町に居住し、子弟を集めた。両替町、つづいて三本木に移り、多くの文人・学者と交わり、とくに梁川星巌・大塩平八郎らと親交があり、大塩の本に序文をよせたりしている。代表作「日本外史」は`27(文政10)松平定信に献じたものである。その他「新策」「通議」「日本政記」「山陽詩鈔」など多数あり、しかもその説はよく世間に流伝した。 |
池西言水 |
旧9/24 |
享保四年(1719) |
江戸前・中期の俳人。(生)大和。松江重頼の門人。江戸に出て談林風を鼓吹したが、その風にあきたらず、京都に移り、晩年には蕉風に傾倒するようになった。〈凩のはては有けり海の音〉の句によって、世に〈こがらしの言水〉といわれる。能書で、絵画・茶道・書画骨董の目ききにも秀でていた。 |
本居宣長 |
旧9/29 |
享和元年(1801) |
江戸後期国学者。(生)伊勢国松阪。宣長の業績は(1)古事記の研究により賀茂真淵の古学をさらに発展させ、復古思想の体系〈古道論〉を完成したこと、(2)科学的古典研究法(文献学)の完成、(3)「古事記伝」など古典の徹底的な研究注釈、(4)「源氏物語」の研究により到達した〈もののあはれ〉の文学論(主情主義)の主張、(5)音韻・文法など国語学研究の発展などで、これらを総合した国学の立場を完成し、後世に大きな影響を与えたことである。 |
夢窓疎石 |
旧9/30 |
平正六年(1351) |
鎌倉後期・南北朝時代の禅僧(臨済宗)。(生)伊勢。甲斐国恵林寺の開山となり、北条氏の帰依をうけて浄智寺・円覚寺に住し、後醍醐天皇の招きにより南禅寺に住した。さらに足利尊氏の帰依をうけて、1339(延元4・暦応2)天龍寺開山となった。春屋妙葩・絶海中津ら多くの弟子がおり、臨済宗の復興につとめ、また造園技術にもすぐれた。 |
種田山頭火 |
10/11 |
昭和十五年(1940) |
大正・昭和期の俳人。(生)山口県。尾崎放哉に傾倒。妻子を捨て庵を結び、また一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴。禅味のある自由律の独自な句を残した。友人大山澄太によって遺稿集「愚を守る」「あの山越えて」が出されたが、近年になって尾崎放哉とともに、山頭火の生涯と俳句に対する関心が高まった。 |
志賀直哉 |
10/21 |
昭和四十六年(1971) |
大正・昭和期の小説家。(生)宮城県。1922名作「暗夜行路」前篇が出版された。翌年京都に`25には奈良に移り住み、この頃から東洋古美術への関心をいっそう強めると共に創作は次第に少なくなった。大正末期にはすでに短篇小説の日本的完成者という評価が定まり、多くの文学者に強い影響を与えた。`37(昭和12)「暗夜行路」後篇を完成。`49文化勲章を受章。 |
正宗白鳥 |
10/28 |
昭和三十七年(1962) |
明治・大正・昭和期の小説家・評論家。(生)岡山県。本領は批評にあり、昭和期に入ると評論に活動の主力が注がれた。1922「文壇人物評論」や文芸時評・回想録等にすぐれたものがあり、`36(昭和11)には小林秀雄と〈思想と実生活〉論争を展開し注目された。`50文化勲章受賞。〈永遠の懐疑者、傍観者〉といわれたが、死の直前にクリスチャンであることを表明したと伝えられ、話題となった。 |
松根東洋城 |
10/28 |
昭和三十九年(1964) |
明治・大正・昭和期の俳人。(生)東京。夏目漱石に師事。「ホトトギス」により句作に励む。〈新傾向俳句〉に対抗し人間修行としての俳句を主張、連句を重んじた。 |
尾崎紅葉 |
10/30 |
明治三十六年(1903) |
明治時代の小説家。(生)東京。1885(明治18)山田美妙らと〈硯友社〉を結成。近代日本文学史上最初の同人雑誌となった回覧雑誌「我楽多文庫」を出す。‘89に発表した「二人比丘尼色懺悔」は好評を博し、出世作となる。その年、大学在学のまま読売新聞社に入社、文芸欄を担当。翌年大学を中退し作家生活に入る。`90「伽羅枕」、`92「三人妻」をはじめ1897〜1902「金色夜叉」など主要作のほとんどを「読売新聞」に発表。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、1891「二人丹女房」後半から〈言文一致〉を試み、〈である〉調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。泉鏡花・徳田秋声ら多くの後進を指導。俳人としても知られるが、西鶴など日本の古典を学び外国の小説を読んだのと同じく、句作もまた彼の〈文章道〉に集約されるものであったといえる。 |
北原白秋 |
11/2 |
昭和十七年(1942) |
明治・大正・昭和期の詩人・歌人。(生)福岡県。1908吉井勇らと〈パンの会〉を作り、`09「スバル」を創刊。〈耽美派〉〈新浪漫派〉と呼ばれる文学グループに属して活躍。`18鈴木三重吉創刊の雑誌「赤い鳥」に童謡を担当することになり、以後優れた新作童謡を次々と発表し「トンボの眼玉」「兎の電報」「祭の笛」などの童謡集を出版。創作民謡にも新生面を開き`22「日本の笛」などを出した。同年、山田耕筰と雑誌「詩と音楽」を創刊、2人のコンビから生れた歌は今日でも多く愛唱されている。詩・短歌・童謡・民謡などの面で貴重な業績が多く、また、詩誌、歌誌の発行も多く、小説・随筆・評論の仕事もある。`41(昭和16)芸術院会員。生涯の全著作は200冊にのぼる。 |