(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
山崎宗鑑 |
旧10/2 |
天文二十二年(1553) |
戦国時代の連歌師・俳人。足利義尚に仕えた武士であったという。壮年すぎて隠遁生活に入り、西国各地を連歌師として行脚したが、とくに山城国大山崎の自治的な惣中とのつながりのなかで、飄逸洒脱な俳諧連歌を作りあげた。 |
小西来山 |
旧10/3 |
享保元年(1716) |
江戸中期の俳人。(生)和泉。幼時、西山宗因門下の前川由平に俳諧を学び、由平の推挙により宗因の直門となった。日を経ずして判者(宗匠)となった。この時18歳。酒への執着著しく、〈生涯醒めたる日なく〉と上島鬼貫の追悼文に見える。その作風は談林的な遊戯に堕さず、〈まこと〉を通すものであった。 |
浪化 |
旧10/9 |
元禄十六年(1703) |
江戸中期の僧・俳人。(生)京都。俳諧は初め北村季吟に、ついで向井去来に学び、1694(元禄7)落柿舎で去来を通じて松尾芭蕉に接し入門。芭蕉没後も敬慕の念厚く、芭蕉塚を建立し、また遺髪を也寥法師から得て黒髪庵を結び、芭蕉の位牌を置いた。蕉門の俳人ともよく交際し、各務支考と親しかった。 |
渡辺崋山 |
旧10/11 |
天保十二年(1841) |
江戸後期の画家・思想家・藩政家。(生)江戸麹町半蔵門外の藩邸。1832(天保3)年寄役(家老)末席に進み藩政に参与した。藩政改革の基本方針として〈養才教化〉に努め、従来の家禄制を職務給制に切りかえようとする格高制などの改革案を実施したが、守旧派の反感をかい失敗に終わった。また海防の充実にも努め、その必要から蘭学を学び、世界の現状を知るにつれて対外的危機感をもつにいたった。高野長英・小関三英らと交情を深めたのもこのころで、〈尚歯会〉の一員として活動を続けた。画業では社会実態を直視した「一掃百態」、西洋画法を採り入れた「鷹見泉石像」「佐藤一斎像」「市河米庵像」など優れた人物画、また遠近法をとり入れた山水画など、著作ではモリソン号事件に関して幕府の対外政策を批判した「慎機論」が有名。 |
松尾芭蕉 |
旧10/12 |
元禄七年(1694) |
江戸前・中期の俳人。(生)伊賀国上野赤坂町。俳諧史上最大の人物で、前代の貞門・談林の句風を止揚し、中世的な美意識である〈さび〉を俳諧の軽みのなかに完成させた。1689弟子の河合曾良を伴って江戸をたち、東北・北陸から大垣にいたる5ヶ月の「おくのほそ道」の旅をした。各務支考に〈旅に病んで夢は枯野をかけめぐる〉の句を示し没した。 |
青木昆陽 |
旧10/12 |
明和六年(1769) |
江戸中期の儒学者・蘭学者。(生)周防(山口県)。1740野呂元丈とともに将軍徳川吉宗の内旨をうけ、`41(寛保1)ころから連年のように参府のオランダ人と通詞を訪問、対話してオランダ語を取得。「和蘭貨幣考」「和蘭話訳」「和蘭文訳」「和蘭文字略考」等を著す。これはオランダ語の習得により、その科学を修めようとする最初の努力で、その成果は前野良沢によって継承発展された。 |
服部嵐雪 |
旧10/13 |
宝永四年(1707) |
江戸中期の俳人。(生)江戸湯島。24歳ごろ、松尾芭蕉に入門した。榎本其角と並んで芭蕉に〈両の手に桃や桜や草の餅〉と信頼された。芭蕉死後は江戸の俳壇を其角と二分して多くの弟子を養成した。蕉門十哲の1人。有名作に〈うめ一輪一りんほどのあたたかさ〉がある。 |
聖一国師 |
旧10/16 |
弘安三年(1280) |
鎌倉中期の禅僧(臨済宗)。(生)駿河。円爾弁円。九条道家に招かれ京都の東南の地に東大・興福の両寺と並ぶ東福寺を創建。1253(建長5)執権北条時頼に菩薩戒を授け、`55後嵯峨上皇に大乗戒を授けた。 |
明恵 |
旧10/18 |
貞永元年(1232) |
鎌倉前期の華厳宗の僧。1206(建永1)後鳥羽上皇から栂尾山を賜り、永く華厳興隆の地とするため旧寺を復興して高山寺と称し、建礼門院・北条泰時の厚い帰依を受けた。新興の浄土諸宗の進出阻止に意を尽くし、南都仏教の復興につとめた。 |
二宮尊徳 |
旧10/20 |
安政三年(1856) |
江戸期の農政家。(生)相模国足柄上郡栢山村。貧農の長男に生れ、没落した一家の再興のため荒地を開拓し、田畑を集め、足柄上郡きっての地主となる。農村の救済をはかり、さらに小田原藩主大久保家の家老服部家の家政改革、同大久保分家の宇津家の知行地下野国桜町領のたて直し、以後豊富な農業知識をもととして関東各地の自力更正につとめ、その晩年には、日光神領のたて直し仕法の命をうけ、その業半ばで没した。尊徳は合理性につらぬかれた農業生産と農民生活の経験を中核にし、論語・大学・中庸や、仏書・神道説を読んで自らの思想発表の手立てとしている。その読書方法は、体系的ではないが、独自の思考と自己形成に役立つものを断片としてとらえ、自己の思惟形式をつくりあげる源泉とした。こうした実用主義的思考は現実問題をいかに解決するかを基本にすえていたことによる。天道と人道とを分離させ、あくまでも人道を作為の道であるとし、天道は理であって人智をもっておかすことはできないとしたが、人道を先王(聖人)の作為したものとして分を守るならば、人間生活を豊かにできるとした。尊徳の考えは維新後も報徳社によって大きな影響をもった。 |
河合曾良 |
旧10/21 |
宝永六年(1709) |
江戸前・中期の俳人。(生)信濃国上諏訪。吉川惟足に神道・和歌を学び、のち蕉門に入った。蕉門下では師によく仕え、生活の一切の世話をした。松尾芭蕉の俳句行脚には随行を許された。特に奥の細道の行脚では「奥の細道随行日記」を記し、芭蕉の記録の不備を補い、虚実を検討する立場から貴重な資料を提供した。 |
高井几董 |
旧10/23 |
寛政元年(1789) |
江戸中期の俳人。(生)京都。初め父に俳諧を学び、1770(明和7)には与謝蕪村に入門、また、榎本其角に厚く私淑した。蕪村が巴人の「一夜松」に倣い「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとした遺志を継いで`85(天明5)関東に行脚。その際出家して許善と称す。`86「続一夜松」を刊行。 |
吉田松陰 |
旧10/27 |
安政六年(1859) |
幕末期の勤皇派志士。・思想家・教育者。(生)長門国萩。松下村塾を開き、門人の育成努力。兵学・儒学を講じ時事を論じたが、そこでの教育は詩文を排し、名利のための学や顧問の学を否定し、述志の人生の学を説いた。中でも修己治人の学、国家経世の学を説いた。間部詮勝要撃を策して安政の大獄に連座、幽閉され、江戸伝馬町に入獄、刑死した。 |
武野紹鴎 |
旧10/29 |
弘治元年(1555) |
戦国時代の茶人・富商。村田珠光の四畳半茶の湯をさらに徹底し、慎み深くて清新な小座敷(茶席)の形式の内に心の養いを求めるのが〈侘〉の茶の湯の根本であるとして、次代の千利休らに深い影響を及ぼした。 |
臼田亜浪 |
11/11 |
昭和二十六年(1951) |
大正・昭和期の俳人。(生)長野県。はじめ新聞界に入ったが、1915(大正4)俳誌「石楠」を創刊・主宰し、俳句に専念した。高浜虚子や大須賀乙字の影響を受けながら独自の俳論を展開した。その特徴は形式的には俳句17音に立脚し一句一章という一行詩をそこに達成しようとしたこと、内容的には自然との合一を図る〈自然感〉の主張と〈まこと〉の探求があげられる。ホトトギス派や新傾向派を批判し、一派をなした。 |
徳田秋声 |
11/18 |
昭和十八年(1943) |
明治・大正・昭和期の小説家。(生)石川県。同郷の泉鏡花のすすめで尾崎紅葉の門に入り、「藪柑子」「惰けもの」「雲のゆくへ」など発表、紅葉門下の四天王の1人に上げられた、1903(明治39)紅葉の死後、自然主義へ移行し作家として本領を発揮。`08「新世帯」を発表し好評を博し、`11「黴」`13(大正2)「爛」、`15「あらくれ」と次々に発表、私生活を冷徹な筆致で描写した客観的態度と〈無技巧の技巧〉と称せられるすぐれた資質とによって自然主義文学の代表作家となった。「仮装人物」は名作として知られる。「縮図」(未完)は晩年の傑作といわれる。 |
吉井勇 |
11/19 |
昭和三十五年(1960) |
明治・大正・昭和期の歌人。1908耽美派の拠点となった〈パンの会〉を北原白秋らと結成。`09「スバル」を創刊し、短歌・戯曲を同誌に発表。〈スバル派〉歌人・劇作家として知られた。短編・長編小説、随筆等、歌人としての仕事を中心に多方面にわたる活動を続け、`48(昭和23)芸術院会員となった。艶情と哀愁の織りなす美の境地を歌った歌人である。 |
会津八一 |
11/21 |
昭和三十一年(1956) |
大正・昭和期の歌人・書家・美術史家。(生)新潟県。音調の整った古典的で清新なその歌は、もと「万葉集」・良寛・子規に啓発され、のち欧亜の詩文と芸術により培ったもので、歌壇にきわだった。また、その書も孤高蒼古の境地を表出した。さらに東洋美術史では、早くから文献と実物との相関研究を唱導し、金石学・文字学・歴史考古学などの学殖とあいまって、学界を刺激した。1948早大名誉教授、`51新潟市名誉市民。 |
石田波郷 |
11/21 |
昭和四十四年(1969) |
昭和期の俳人。(生)愛媛県。1935処女句集「石田波郷句集」を出版し注目された。`37俳誌「鶴」を創刊・主宰するとともに次第に人生諷詠の句風に転じ、専ら「鶴」によって〈韻文精神〉を強調、独自の俳句運動を展開した。`54「石田波郷全句集」で第6回読売文学賞を受賞した。 |
樋口一葉 |
11/23 |
明治二十九年(1896) |
明治時代の小説家・歌人。(生)東京。1893創刊の「文学界」同人たちとの交遊に強い影響を受け、初期にみられた戯作風な態度と物語調を脱し、自分の生きている時代の現実をみつめ、そこに生きる人々の姿を生活の中から生れる言葉で表現しようと考えるようになる。こうした自覚によって、`94「大つごもり」`95「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」`96「わかれ道」「われから」など晩年のすぐれた作品が生れた。短い生涯を貧困の中におえ、文壇に名が知られたのは死の年である。明治の社会にあって封建的な思想や倫理を強要されて生きねばならなかった女性の悲惨な姿をありのままに描いた。主人公たちへの深い愛情が雅俗折衷の独自の文体と相まって、一葉の作品を今日でも読者に深い感動を与えるものにしている。 |
三島由紀夫 |
11/25 |
昭和四十五年(1970) |
戦後の小説家・劇作家。(生)東京。学習院中等科在学中から小説を書き、1944(昭和1)処女短篇集「花ざかりの森」を出版。戦後、川端康成の推薦で「煙草」「岬にての物語」などを発表。「仮面の告白」「愛の渇き」などで戦後文壇に作家的地位を得た。以後小説・戯曲・評論を通じて様々な実験を行ない美的探究を続けた。`53「禁色」をへて「潮騒」「金閣寺」や戯曲集「近代能楽集」においてその方法論がみごとに開花した。`68〈盾の会〉を結成、`70同会の学生と、東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乗り込み、自衛隊の決起を促したが果たせず、割腹自殺した。その美学を完成するために絶対者(天皇)が必要だとした主張とともに、死の行為は大きな波紋を及ぼした。 |