矢代仁トピックス



本年に賜りましたご厚情を深謝いたしますとともに、
明年も変わらぬ交誼のほどお願い申し上げます。
画像:郷土玩具・土製の鶏など:矢代仁蔵書「うないのとも」



2005年単衣、夏物の新作発表です、
ご来場お待ち申しあげております。



11月19日(金)えびす講神儀に続き、恒例の記念講演会が行われました。本年は「ひかり税理士法人」代表社員であり、今般より当社の監査役もお務め頂いております、光田周史公認会計士にお願い致しました。演題は「財務情報から探る倒産会社の破綻の兆候」です。

1.借入金(他人資本)大
2.過剰在庫・債務
3.営業キャッシュフロー赤字
4.悪質(稼がない)投資
5.不良(金にならない)債権大

などを公開企業の事例にもとづき、わかりやすく説明下さいました。
「ムードで経営していては良くなるのは難しい」、会計、経理や数字の重要性を再認識しました。



11月18日、よみうりテレビ「遠くへ行きたい」の取材で、
女優「仁科亜希子」さんが当社を訪問されました。
番組名:第1732回「遠くへ行きたい」
    〜京都・気づかいのおしゃれ
出演者:仁科亜希子(旅する人)さん
放送時間:平成16年12月12日(日)、朝7時30〜8時00
YTV(大阪)NTV(東京)CTV(名古屋)FBS(福岡)
※ 和歌山は、読売テレビYTVで放送されます。



京都・矢代仁「西陣御召今昔展」
■ 日本橋高島屋7階特選呉服売場 11/24〜30
■ 横浜高島屋6階特選呉服売場  11/24〜30
■ 大阪高島屋6階特選呉服売場  12/2〜9
■ 京都高島屋5階特選呉服売場  12/2〜9
■ ジェイアール名古屋タカシマヤ10階きものサロン  12/15〜21

【ご参考】「美しいキモノ」2004年冬号 P68〜71
染織の美を訪ねて:第四回 都に生まれた織物の聖地「西陣」、第五章 御召の変遷



季節の花ギャラリー
千両、萬両、百両:矢代仁蔵書「四季の花」
仙蓼〜ちゃらん科に属し、草珊瑚とも言う。暖かい地方の山林の樹下に生ずる常緑灌木で、ふつう叢生して60〜90センチに達し、茎はやや草質を呈する。葉はつやのある卵状長楕円形で鋸歯を有し、夏、緑色の小花をむらがりつけ、後、小球果となる。冬に紅熟して、年を越えても落ちない。まれに黄色・白色のものもある。果実は昔からいけばな材料として珍重され、ことに正月の床の間の飾りになくてはならない。千両、萬両があれば百両、十両もありそうだが、カラタチバナとヤブコウジがこの名で呼ばれる。ただし一両に該当する植物はない。この序列は草丈の順序によるらしい。
萬両〜やぶこうじ科の常緑灌木で、暖地の陰地に生じ、庭にも栽培する。高さ60〜90センチで、葉は厚くてつやのある長楕円形、鈍い鋸歯がある。夏、白い小さい五裂の花を繖状につけ、花の後、豌豆ぐらいの球果を結び、赤く熟すると美しい。とくに茶庭などで観賞用に栽培される。よく似たセンリョウとは、葉の上に実を現すのがセンリョウ、葉の下に垂れるのがマンリョウとする見分け方がある。またマンリョウの実のほうがやや大粒で、色も鈍く重々しい。



歳時記より
桧に白鷹:矢代仁蔵書「梅嶺画鑑」

鷹〜鷲につぐ猛禽(もうきん)で、鷲ほど雄偉ではないが、姿態清楚で威厳がある。大形の「熊鷹」はむしろ鷲に類する。「隼」・「ちゅうひ」は北方から冬、渡来してくる。日本で蕃殖(はんしょく)するものには、「長元坊」俗名「馬糞鷹」・「馬糞つかみ」や「のすり」また「はいたか」一名「はしたか」、あるいは「つみ」・「刺羽」などがあり、冬、南方に渡り、ことに九州南端で見られる刺羽の渡りは壮観である。「はいたか」の雄を「このり」、「つみ」の雄を「えっさい」と言い、ともに雌が雄より大きい。古来、鷹狩に用いるものは主として大鷹(蒼鷹)で留鳥である。秋の鶉・雲雀などの小鷹狩には、はいたか・つみ・刺羽など小形の鷹を用いた。隼は流線型の鷹で、飛翔迅速、中空から急降下して小鳥類を襲う。ヨーロッパの鷹狩には、おもに隼を用いる。荒鷹は捕えてまだ人なれぬ鷹。

鷹狩〜飼いならした鷹を放って鳥を捕えることは古くから行なわれ、ことに江戸時代には盛んに行われたが、明治以後、銃猟が行なわれるようになって廃れた。放鷹とも鷹野とも言った。ただわずかに、宮内省には鷹匠を置き、越ヶ谷の御狩場で行なわれることがある。鷹につける鈴を鷹の鈴と言い、鷹をとまらせる木を鷹槊(たかほこ)と言う。また翦鷹(それだか)は鳥を見失ってあらぬ方へそれた鷹であり、鷹犬は鷹狩に用いる犬である。その他に鷹詞と言って、さまざまの用語を古歳時記には挙げてある。秋の鷹狩を小鷹狩、春を鳴鳥狩と言った。

十二月の忌日

(姓名) (忌日) (没年)
滝沢馬琴 旧11/6 嘉永元年(1848)
江戸後期の戯作家。(生)江戸深川。黄表紙・噺本など多数出していたが、1706(文化3)頃から読本の発行部数が多くなり「椿説弓張月」「南総里見八犬伝」「朝夷巡島記」等を次々に発表、精力的活躍をつづけた。晩年は失明の患にもめげず、死の直前まで創作活動をやめなかった。
松永貞徳 旧11/15 承応二年(1653)
江戸前期の文人。(生)京都。寛永年間(1624〜43)の歌壇を代表。著作は甚だ多く、家集「逍遊愚抄」をはじめ、「徒然草長頭丸抄」などの注釈、「油糟」「淀川」をへて「御傘」10巻に集大成される俳諧研究、また狂歌に「詠百首狂歌」があり、文章に「貞徳文集」「載恩記」があり、百科全書的な多彩な活躍をし、しかも啓蒙的な業績が大きい。弟子も多く、野々口立圃・松江重頼・山本西武・北村季吟など、その風は一世を風靡した。
良弁 閏11/16 宝亀四年(773)
奈良時代の僧。義淵について学び、740(天平12)金鐘寺(東大寺)で審祥を講師とする華厳経講を開き、華厳宗の発展に寄与した。また東大寺建立にあたり初代別当となる。僧官としても重用され`56聖武太上天皇の看病の巧を高く評されるとともに、鑑真と並んで大僧都に任じられる。
三浦樗良 旧11/16 安永九年(1780)
江戸中・後期の俳人。(生)志摩国鳥羽。天明中興俳諧六家の1人で、若いころ無敵斎百雄に俳諧を学び、1762(宝暦12)伊勢国山田岡本町に無為庵を結び、松岡青蘿・与謝蕪村らと交わる一方、平明なうちに淡雅な句風を守って活躍。流浪行脚の生活は長く、`76(安永5)京都三条に落ち着いた。
夏目成美 旧11/19 文化十三年(1816)
江戸後期の俳人。(生)江戸浅草蔵前。四詩観派に属した父に俳諧を学んだ。富裕な家業を継ぎながら俳諧をつづけ、独学で江戸の四大家の1人と称されるに至った。俳風は清雅が特徴だが、それだけに深味に乏しいといわれる。
小林一茶 旧11/19 文政十年(1827))
江戸後期の俳人。(生)信濃国上水内郡柏原村。句日記「七番日記」、俳諧集「おらが春」などのほか発句は2万句以上におよぶ。
一休宗純 旧11/21 文明十三年(1481)
室町前期の禅僧(臨済宗)。(生)京都。堺の豪商尾和四郎左衛門の援助によって大徳寺の法堂を建立するなど、応仁の乱後の大徳寺の復興に大きく貢献した。一休はみずから狂雲子と号したように、その行動は奇矯にわたることが多かった。盲目の森侍者を側女とし、戒律で厳禁されている女犯肉食を行い、異様な風体で町を歩いた。岐翁紹偵という実子があったことは有名。しかし、一休のこのような生活態度は、仏教の形式化と堕落とに対する厳しい批判を根底にもっていた。また、一休の形式ぶらず人間味あふれる一面は、後世に一休物語を生む素因ともなった。
近松門左衛門 旧11/22 享保九年(1724)
江戸中期の歌舞伎狂言・浄瑠璃作家。竹本座を率いる竹本義太夫と提携し浄瑠璃の作品を次々に発表した。一方、歌舞伎の名優坂田藤十郎のためにも脚本を書き、元禄歌舞伎の全盛時代築き上げた。代表作は「曾根崎心中」「夕霧阿波鳴門」「女殺油地獄」など。
親鸞 旧11/28 弘長二年(1262)
鎌倉前期の僧。浄土真宗の開祖。師法然の思想をさらに深め、独自の信仰境地を作りあげ、絶対他力・悪人正機説をとなえ、当時の仏教界に大きな影響を与えた。唯円編といわれる「歎異鈔」は親鸞の法語を集めた貴重な教典の1つである。
藤原俊成 旧11/30 元久元年(1204)
平安末・鎌倉初期の代表的歌人。歌を藤原基俊・顕輔に学んでその才能を伸ばし、`87(文治3)後白河法皇の命により「千載和歌集」を撰進。1203(建仁3)後鳥羽上皇により和歌所で九十賀を祝われ歌人として当代第一人者の名声をほしいままにした。
夏目漱石 12/9 大正五年(1916)
明治・大正期の小説家。(生)江戸。漱石の半生はほとんど病患とのたたかいといわれるほど神経衰弱・慢性の胃病・糖尿病に悩まされたが、1910胃潰瘍のため吐血して危篤状態におちいる体験をし、この大患が漱石の人と文学に一転機をもたらしたといわれる。その後の代表的作品には「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などがある。小説とならんで研究評論・講演・談話等でも重要な問題を提起し、優れた思想家・文明批評家としての役割も果たした。`11文相から授与された文博の学位を辞退したことは漱石の人柄を示すものとしてよく知られている。
原石鼎 12/20 昭和二十六年(1951)
大正・昭和期の俳人。(生)島根県。在学中から作句していたが、高浜虚子に認められ、1915(大正4)ホトトギス社に入り、`21から「鹿火屋」を主宰。「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」の俳句欄を担当。力強い作風で大正期には飯田蛇笏らと並び称された。
横光利一 12/30 昭和二十二年(1947)
昭和期の小説家。(生)福島県。菊地寛を知り、1923(大正12)「文芸春秋」創刊に際し同人に加えられた。同年発表の小説「日輪」「蝿」などで新進作家として知られ、`24川端康成らと「文芸時代」を創刊。「頭ならびに腹」「ナポレオンと田虫」「春は馬車に乗って」などの小説を発表するとともに、評論・文芸時評を執筆。伝統的私小説とプロレタリア文学に対抗し新しい感覚的表現を主張、〈新感覚派〉の代表作家として活躍した。「上海」「機械」「寝園」「紋章」「家族会議」など。
富岡鉄斎 12/31 大正十三年(1924)
明治・大正期の日本画家。絵はほとんど独学。はじめ大和絵、のちに南画に転じた。維新にさいして国事に奔走、その後1882(明治15)に京都上京区薬屋町に居を構えるまで各地の神社の宮司をつとめ、また旅行することも多かった。1908「安部仲麻明州与諸士留別図」ほか1点を皇室に献上。`17(大正6)帝室技芸員、`20帝国美術員会員。このころから鉄斎の画風はいわゆる南画の概念をこえ、筆法・彩色ともに奔放さを加え、晩年に至っていよいよ独往のものとなった。遺作は多いが、晩年に優れた作品が集中してみられ`21「渓居清適図」`23「瀛洲僊境図」`24「梅華書屋図」などがある。
寺田寅彦 12/31 昭和十年(1935)
明治・大正・昭和期の物理学者・随筆家。(生)東京。五高在校中、夏目漱石に英語と俳句の、田丸卓郎に科学の楽しみを学ぶ。1916(大正15)東大教授、潮汐や間歇泉の研究、電気火花の研究など、多くの日常身辺の現象を研究対象とし、地球物理学など物理学のあらゆる分野に関心を示した。五高時代に漱石の推薦で「ホトトギス」などに俳句や散文を発表、大学時代に正岡子規と知り合う。漱石門下ではあるが、漱石も寅彦を畏敬し、「吾輩は猫である」の寒月、「三四郎」の野々宮は寅彦をモデルにしたものといわれる。`27(昭和2)胃潰瘍で入院し、静養中より、科学者の観察眼で拾った題材を、理性をはずさない、きめの細かな抒情詩に仕上げる、独特の随筆を多く書いた。
中塚一碧楼 12/31 昭和二十一年(1946)
明治・大正・昭和期の俳人。(生)岡山県。川東碧梧桐の「日本俳句」に投句して才能を示し、碧梧桐に師事。新傾向俳句の新人として注目される。〈真実味・人間味の直接的表現〉を俳句に求め、精神主義的傾向をも見せたが、近代的自由律俳句に業績を残した。


矢代仁が出品する主な催しの予定

日程 場所 催し名
11月 24日〜12/7 名古屋松坂屋:店内 特選呉服謝恩市
12月 2日 仙台三越:仙台プラザホテル 特招会

2〜9日 大阪高島屋:店内 西陣御召今昔展

2〜9日 京都高島屋:店内 西陣御召今昔展

4〜5日 仙台三越:室町二条矢代仁京都店 京都ツアー

8〜14日 神戸大丸:店内 年末バーゲン

8日〜1/23 遠藤:店内 店内改修セール・理由有りセール

9〜15日 トキハ:店内 結びの大市

9〜25日 福岡岩田屋:店内 室町バーゲン

10〜12日 京都高島屋:店内 サロンBS

11日 伊勢丹:新宿NSビル 高級呉服奉仕会

11〜12日 三越本店:濱田屋 大見切市

11〜14日 大阪高島屋:店内 感謝市

15日 和ギャラリー:相模原、立川、浦和、高崎 年末年始赤札市

15〜21日 ジェイアール名古屋タカシマヤ:店内 西陣御召今昔展

17〜23日 出雲まにわ:店内 閉店セール




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