(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
藤原行成 |
旧12/4 |
万寿四年(1027) |
平安中期の官僚・書家。1017(寛仁1)中納言、`20権大納言。書家としてもすぐれ、権跡とよばれて尊ばれた。行成にはじまる書流を世尊寺流というが、外祖父保光の旧宅を寺にして世尊寺と称したことに由来する。小野道風・藤原佐理とともに三蹟の1人。 |
徳川光圀 |
旧12/6 |
元禄十三年(1700) |
江戸前期の御三家の大名。`57(明暦3)「大日本史」の編纂に着手し生涯これに尽くす。これよりさき彰考館を建てる。`61(寛文1)家督を相続し28万石の水戸藩主となる。`90(元禄3)封を綱条に譲り太田郷西山に居を移し自ら西山隠士という。朝廷への敬意の念を持ち、また宗教制度の是正や勧農政策の実施につとめた。著述な「常山文集」25巻をはじめ数多い。名君の誉れ高く、のちに「水戸黄門漫遊記」がつくられた。これはその民治の面での治績の多いことを物語っている。 |
黒柳召波 |
旧12/7 |
明和八年(1771) |
江戸中期の俳人。(生)山城。服部南郭に漢学を学んだが、与謝蕪村に学んだ俳諧をもって知られる。蕪村門下では俊才をもって知られ、蕪村も書状に〈平安に珍しき高邁の風流家〉〈格調尋常のものに無之候〉と賞賛した。句風は漢詩文の素養を取り入れ、蕪村との共通点をもっている。 |
沢庵宗彭 |
旧12/11 |
正保二年(1645) |
江戸前期の禅僧(臨済宗)。(生)但馬国出石。1609(慶長14)大徳寺住持となる。将軍徳川家光に重用され、江戸品川の東海寺開山となった。詩歌・俳諧・茶道に通じ、「明暗双々集」ほか多くの著作がある。 |
白隠慧鶴 |
旧12/11 |
明和五年(1768) |
江戸中期の禅僧(臨済宗)。1717(享保2)松蔭寺の住持となり、翌年妙心寺の第一座となる。`26法華経の深理を得たという。その後「四部録」「臨済録」「碧巌録」を提唱し、説教・著作を通して民衆教化につくした。 |
坂本龍馬 |
旧12/12 |
慶応三年(1867) |
幕末期の志士。土佐藩主山内豊信(容堂)を動かして幕府の大政奉還を実現し、新政の構想たる〈船中八策〉(大政奉還・上下議政局設置・人材登用と官制改革・外交刷新・法典制定・海軍拡張・御親兵設置・幣制改革)の実現に尽力中、11月15日京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。 |
平賀源内 |
旧12/18 |
安永八年(1779) |
江戸中・後期の本草学者・戯作者。(生)讃岐国志度浦。1763本草研究を整理して「物類品_(ぶつるいひんしつ)」を発刊、ついで火浣布(かかんぷ)・寒暖計・羅紗の製作、鉱山開発・油絵などあらゆる分野に才能を発揮、エレキテル(摩擦起電器)は最も人を驚かした。ありあまる才能を持ちながら世に迎えられぬ生活のいらだちから`78(安政7)2人を殺傷、翌年牢獄で病死した。 |
与謝蕪村 |
旧12/25 |
天明三年(1783) |
江戸中・後期の俳人・画家。(生)摂津国東成郡毛馬。俳諧においては薫風復興の提唱、さらにそれを越えた近代的な新鮮さに富む独自の句風を展開した。選集は専ら高井几董に任せ、「其雪影」以下「明鳥」「続明鳥」などを刊行。一方画業も完成され、特に1771池大雅と合作した「十便十宜図」は日本文人画の代表作とされる。 |
松瀬青々 |
1/9 |
昭和十二年(1937) |
明治・大正・昭和期の俳人。(生)大阪。1899(明治32)上京し正岡子規に師事。大阪朝日新聞に入社、〈朝日俳壇〉を晩年まで担当した。1901俳誌「宝船」(のち「倦鳥」と改題)を創刊主宰した。 |
天田愚庵 |
1/17 |
明治三十七年(1904) |
明治時代の歌人。(生)福島県。戊辰戦争で父母・妹が行方不明になり、以後その所在を尋ねて流浪生活を始める。その間、山岡鉄舟・滴水禅師の教えを受ける。その歌は万葉調で力強い。正岡子規との交流もあった。 |
勝海舟 |
1/19 |
明治三十二年(1899) |
幕末・明治期の政治家。(生)江戸本所亀沢町。1860(万延1)日米修好通商条約批准のため、外国奉行新見正興らが渡米する際、咸臨丸艦長として乗組み、日本人最初の太平洋横断航海に成功。第2次長州征討においては、幕府の全権使節として平和的交渉に努力した。鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗れると将軍徳川慶喜の意をうけ官軍の参謀西郷隆盛と会見し、江戸城の平和的明け渡しに成功した。 |
大須賀乙字 |
1/20 |
大正九年(1920) |
明治・大正期の俳人。(生)福島県。東大在学中から河東碧梧桐の門下として才能を示し、1905(明治38)「東京日日新聞」の俳句選者となる。`08「俳句界の新傾向」を発表して注目を集め、その後、俳論家として秀れた業績を残した。 |
杉田久女 |
1/21 |
昭和二十一年(1946) |
昭和期の俳人。(生)鹿児島県。小説家を志したが果せず高浜虚子に師事。1932(昭和7)俳誌「花衣」を主宰。門下に橋本多佳子らがいる。激しい言動のため世の誤解を招くことが多く、晩年は精神に異常をきたした。死後「杉田久女句集」が出され、その優れた才能が認められた。 |
日野草城 |
1/29 |
昭和三十一年(1956) |
昭和期の俳人。(生)東京。第1句集「花氷」を出版して認められ、1929(昭和4)「ホトトギス」同人となったが、自由主義的立場に立ち〈新興俳句運動〉の中心となって活躍、`35「旗艦」を主宰。`40から始まった俳句への弾圧のため、以後活動を停止した。敗戦後「太陽系」に参加、`49「青玄」を創刊・主宰した。 |
川東碧梧桐 |
2/1 |
昭和十二年(1937) |
明治・大正期の俳人。(生)愛媛県。高浜虚子と共に正岡子規門下の双璧と称され早くから才能を示した。「ホトトギス」を主宰した虚子とは同郷で少年時代からの親友であったが、子規没後、2人の行き方には著しい違いが生じた。碧梧桐は門下に大須賀乙字・荻原井泉水らの新進を集め、〈俳句三昧〉と称する連日連夜の修行的句会を開いたり、全国行脚によって〈新傾向俳句〉運動を進めた。新時代の精神を伝統的俳句の中にいかに生かすかに苦心し、定型を捨てて自由律に進み、やがて季題を捨て短詩へ向かう姿勢を示すに至る。門下の分裂や「俳壇引退声明」(1933)を出すに至る句作の衰退など晩年は恵まれなかったが、近代俳句史上に残した功績は大きい。 |
福沢諭吉 |
2/3 |
明治三十四年(1901) |
明治時代の民間啓蒙思想家。(生)大阪の中津藩蔵屋敷。1858(安政5)藩命で江戸に出府、翌年、英学に転じた。`60〜`67(万延1〜慶応3)幕府に出仕し、この間3度にわたり幕府遣外使節に随行して欧米を視察、欧米近代文明に関する当代最高の新知識人となる。`68(明治1)慶応義塾を創設、また「西洋事情」(1866〜70)を刊行し欧米文明の紹介に努めた。最大課題としたのは、〈一国独立・富国強兵〉であって、そのため明治初期には封建思想を鋭く批判し、個人の自発的精神と実学精神を鼓吹し、近代的合理主義の立場を示した。`72「学問のすゝめ」は人間平等宣言と〈一身独立・一国独立〉の主張で人々の心をとらえてベストセラーになり。`75「文明論之概略」は在来日本文明を批判し、西欧文明を目的として独立をはかれと主張した文明論の名著。`99「福翁自伝」を刊行した。なお誕生日の天保5年12月12日は、1835年1月10日となる。 |