(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
志田野坡 |
旧1/3 |
元文五年(1740) |
江戸中期の俳人。(生)越前国福井。1694(元禄7)「炭俵」を上梓してその地歩を築いてより連年作品を発表、京坂・中国・九州に勢力をしき、大坂の梅従、京の風之、広島の風律、筑前の浮風ら門人1千余といわれた。作風は軽み・枯淡を旨としたが、芭蕉に比して平俗、晩年に至るほど知的で浅俗と評される。蕉門十哲の1人。 |
良寛 |
旧1/6 |
天保二年(1831) |
江戸後期の歌人・僧。(生)越後国出雲崎。長年苦学修道し、諸国を行脚。生涯寺を持たなかった。ときには托鉢して回り、子供らと遊び、農民と酒をくみ、そして和歌を詠み書を楽しむという自由にして無欲な、およそ僧らしからぬ自然の子として一生を貫いたといわれる。万葉風の和歌および書風は天衣無縫で、高く評価されている。 |
足利義政 |
旧1/7 |
延徳二年(1490) |
室町幕府8代将軍。(生)阿波。1449(宝徳1)征夷大将軍となる。義視(弟)・義尚(実子)の将軍継嗣争いに、畠山・斯波家等の分裂抗争が結びつき、応仁の乱が引き起された。`73(文明5)将軍職を義尚に譲り、隠棲地東山に山荘造営を計画し情熱を傾けた。`82着工したこの工事は、莫大な経費を要して`83常御所の完成をみた。義尚と対立していた義政は直ちにここに移住し、東山殿と称され、貴族的武家文化といわれる東山文化を興した |
夕霧 |
旧1/7 |
延宝六年(1678) |
江戸期の遊女。大坂新町扇屋四郎兵衛の抱えの太夫で、日本三太夫の一人として、江戸の高尾、京の吉野と並び評された。近松門左衛門の「夕霧名残り正月」「夕霧七年忌(歌舞伎)」「夕霧阿波鳴渡(人形浄瑠璃)」や井原西鶴の「好色一代男」に取り上げられた。 |
服部土芳 |
旧1/18 |
享保十五年(1730) |
江戸中期の俳人。(生)伊賀国上野。俳諧は松尾芭蕉に師事した。芭蕉に信頼され、その俳論や句作、交友を詳しく記録した。「三冊子」は芭蕉に近侍した立場から書かれた貴重な芭蕉研究資料である。 |
源義仲 |
旧1/20 |
元暦元年(1184) |
平安後期の武将。源義賢の次子。二歳の時、父義賢が源義平に討たれた為、中原兼遠の手により木曾山中で育てられる。木曾の出であることから木曾義仲とも呼ばれた。以仁王の令旨を奉じて信濃で挙兵。横田河原、砺破山(倶利伽羅峠)、篠原で次々と平家の軍勢を破る。北陸道を進み他の源氏に先駆けて入京。平家を都落ちさせ、東国の頼朝、西国の平氏と天下三分の形勢を作った。しかし傍若無人な振る舞いから都人に疎まれ、後白河法皇とも反目。法皇が義仲追討の院宣を発すると、法皇の御所に攻め入る。やがて頼朝の命を受けた範頼・義経に攻められると、平氏に協力して頼朝を討とうとするが、平氏側の返事は不発に終わり、遂には近江粟津原で戦死した。 |
加藤暁台 |
旧1/20 |
寛政四年(1792) |
江戸後期の俳人。(生)尾張国名古屋。俳諧を美濃派の蓮阿房白尼に学び、その後独立して薫風の復興に努めた。多くの弟子を得、東の大島蓼太と共に並び称され、名古屋を中心に一大勢力を誇る。1790(寛政2)二条家から中興宗匠の称号を与えられた。 |
法然上人 |
旧1/25 |
建暦二年(1212) |
平安・鎌倉前期の僧。浄土宗の開祖。1150黒谷青龍寺の叡空の門に入り、師から法然の房号をうけ、源空と称した。当時の黒谷は〈遁世〉の聖集団の別所であり、ここに`75(安元1)まで25年間居住し学問を積んだ。この年口称名号の浄土宗を開くべく山を下り専修念仏を説く。その特徴は戒定慧の三学を排し、女性に直接布教したことにある。信者は一般在家以外に学僧をはじめ九条兼実、後白河法皇などに及んだ。法然の専修念仏は比叡山から敵視され、院の官女を門弟が出家させたことから後鳥羽法皇の怒りをかい、1207(承元1)土佐に流された。`11(建暦1)帰洛を許され東山大谷に住したが翌年没した。著述は多く、特に1198(建久9)成立の「選択本願念仏集」が有名。 |
円珠庵契沖 |
旧1/25 |
元禄十四年(1701) |
江戸中期の国学者。(生)尼崎。高野山で仏教を修行、1662(寛文2)大坂生玉の曼荼羅院住職となる。この頃下河原長流との交渉が始まる。契沖の学問は秘伝や主観的解釈を排して自由で科学的な実証的研究法を確立し、その復古思想とともに国学勃興の先駆けをなした。国学四大人の1人。 |
源実朝 |
旧1/27 |
承久元年(1219) |
鎌倉幕府3代将軍・歌人。源頼朝の次男、母は北条政子。二代将軍であった兄頼家が比企能員と結んで北条氏討伐を企てたが失敗し、伊豆修善寺に幽閉されたのち、1203(建仁3)、12歳で征夷大将軍となった。翌年京都より坊門前大納言信清の娘を正室に迎え、公家風な生活を送った。当時幕府の実権は母政子の兄北条義時が掌握し、政治の外に置かれた実朝は和歌や蹴鞠に熱中することとなった。ことに和歌は藤原定家から激賞され、「近代秀歌」「万葉集」などを贈られた。源氏の血統が自己で絶えることを予測し、官途の栄達を願い、異例の速さ昇進。`18(建保6)右大臣に至る。翌`19(承久1)正月鎌倉鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式にのぞんだ際、甥の鶴岡八幡宮別当公暁に殺された。公暁もただちに殺されて頼朝直系の子孫は断絶。家集「金槐和歌集」その他を含めて753首が現存するが、うち70首前後が万葉調の和歌である。現実感の深い情感豊かな作品を京都歌壇の外にあって作った。 |
大谷光演 |
2/6 |
昭和十八年(1943) |
明治後・大正期の東本願寺法主・俳人。俳号を句仏。(生)京都。真宗大谷派第23世。1908(明治41)法主となるが、鉱山事業に失敗して`25(大正14)退く。書画をよくする文人で、とくに俳句はホトトギス系で河東碧梧桐についた。 |
長塚節 |
2/8 |
大正四年(1915) |
明治時代の歌人・小説家。(生)茨城県。正岡子規に師事。子規没後は伊藤左千夫とともに1903(明治36)「馬酔木」を創刊、子規の教え発展させるべく歌論・実作で努力した。一方、写生・小説へも関心を強め、`03の「月見の夕」以後写文や短篇小説を発表して注目を集め、夏目漱石の推薦で`10長編小説「土」が「東京朝日新聞」に連載されるに至る。農民文学の代表作といわれるこの作品完成後、病のためもあって作歌の世界へもどり、「病中雑詠」「鍼の如く」の晩年の優れた作品が生れた。 |
木下利玄 |
2/15 |
大正十四年(1925) |
大正期の歌人。(生)岡山県。学習院時代同級だった武者小路実篤らと1910「白樺」を創刊、はじめは小説も発表したが、のちには短歌に専念。白樺派の理想主義を短歌において実現するための努力を続け、北原白秋の影響も受けた。`14(大正3)処女歌集「銀」出版後、島木赤彦の影響を受けてリアリスティックな歌風に転じ、`19「紅玉」、`24「一路」の両歌集で自然観照を中核とする独自な歌風を示した。「白樺」廃刊後は「日光」「不二」の同人として作歌を続け、晩年には写実を超えた美の世界を創造し、その短歌はむしろ彼の没後、高い評価を受けるに至った。 |
岡本かの子 |
2/18 |
昭和十四年(1939) |
大正・昭和期の歌人・小説家。(生)東京。「明星」「スバル」に歌を発表して出発。1911(明治44)平塚らいてうに招かれ「青鞜」に参加。翌年処女歌集「かろきねたみ」を出版。その後、仏教への関心を強め、仏教教理の解説や教典研究の著作を出した。この間`18(大正7)歌集「愛のなやみ」、`25「浴身」、`29(昭和4)「わが最終歌集」を刊行。`29夫の一平、息子の太郎と共にパリへ行き`32帰国。その後は小説家として死に至るまで多くのユニークな作品を書き続けた。「老妓抄」「河明り」「生々流転」等が代表作。 |
内藤鳴雪 |
2/20 |
大正十五年(1926) |
明治・大正期の俳人。(生)江戸。松山藩寄宿舎監督のとき、同舎生正岡子規の感化で1892に46歳で句作を始めた。豊かな学識と古典的格調を持つ俳人として知られ、生涯主宰誌は持たなかったが、「ホトトギス」などの俳句選者として指導的役割を果たした。 |
小林多喜二 |
2/20 |
昭和八年(1933) |
昭和期の小説家。(生)秋田県。在学中から文学への熱意強く、志賀直哉を敬愛した。北海道拓殖銀行小樽支店入行。1926(大正15)頃から社会科学を学びプロレタリア文学への関心を強め、小樽の労働運動に参加。`29[蟹工船]が発表され、すぐれたプロレタリア作家として認められた。銀行を解雇され、翌年上京、治安維持法違反で起訴、豊多摩刑務所に収容される。`31保釈後、〈プロレタリア作家同盟〉(ナルプ)書記長をつとめ、日本共産党に入党、`33街頭連絡中逮捕され、築地署で拷問によって虐殺されるまで、半ば非合法化された文化・文学運動の組織の指導に尽力、多くの評論を書くとともに小説を書き続けた。死後発表された未完の「党生活者」はプロレタリア文学の記念碑的作品である。 |
芝不器男 |
2/24 |
昭和五年(1930) |
大正・昭和初期の俳人。(生)愛媛県。「天の川」「ホトトギス」に投句し、高浜虚子の鑑賞を受けて注目をあびる。不器男という名は本名で、父親が論語の「君子不器」(君子ハ器ナラズ〜人間は一つの器にとどまらないで、全人的完成をめざすべきであるの意)から命名したと言われる。 |
斎藤茂吉 |
2/25 |
昭和二十八年(1953) |
大正・昭和期の歌人。(生)山形県。1911頃から、島木赤彦らと〈アララギ派〉の中心歌人として知られる。欧州留学後`26から青山脳病院長をつぐとともに赤彦没後の「アララギ」を背負って活躍を続け、`37(昭和12)芸術院会員。生涯、短歌という伝統的詩形式を離れず〈実相観入〉の境地を深めた。近代短歌を代表する歌人であるとともに、研究・評論の業績も多く、`40完成した大著「柿本人麿」全5巻は学士院賞を受けた。小説家北杜夫は子。 |
野見山朱鳥 |
2/26 |
昭和四十五年(1970) |
昭和期の俳人。(生)福岡県。絵画を志すが胸を病み、版画に転向、後句作に集中する。病は回復再発を繰り返し、人生の三分の一は病床にあった。1945「ホトトギス」に投句し始め、虚子に「曩(さき)に茅舎(川端)を失ひ今は朱鳥を得た」と賞賛される。1958波多野爽波、橋本鶏二、福田蓼汀らと、「四誌連合会」結成。1952「菜殻火」創刊。 |
坪内逍遥 |
2/28 |
昭和十年(1935) |
明治・大正期の評論家・小説家・劇作家。(生)美濃:愛知県。1885(明治18)小説「当世書生気質」と論評「小説真髄」を執筆し、翌年刊行。`91〜`92に近代文学史上最初の論争といわれる〈没理想論争〉を森鴎外との間で展開した。`89日本演劇協会を森田思軒・岡倉天心らと設立し、歌舞伎の改革をめざして運動を進めた。翻訳家としての彼の最大の功績は「ジュリアス=シーザー」の翻訳「該撤奇談自由太刀余波鋭鋒」からはじまる「シェークスピア全集」の完成(1928)である。 |
久米正雄 |
2/29 |
昭和二十七年(1952) |
大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人。(生)長野県。高校時代に河東碧梧桐門下の俳人として知られる才能を示していたが、次第に劇作に転じ、芥川龍之介らと創刊した第3次「新思潮」に1914(大正3)戯曲「牛乳屋の兄弟」を発表、翌年から夏目漱石の門に入る。「地蔵教由来」「心中後日譚」などの戯曲のほか短篇小説も書き、`18短篇集「手品師」を出版。その後「蛍草」「破船」「月よりの使者」などの長編小説で注目を集めた。〈新技巧派〉の作家といわれたが、通俗小説に活躍の場を求めた。 |