(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
行基 |
旧2/2 |
天平勝宝元年(749) |
奈良時代の僧。「続日本紀」卒伝によれば、都鄙を周遊して衆生を教化、追従するもの、ときに1千を数えたという。また自ら弟子を率いて要地に橋を造り堤を築いた。その際多くの人々が参加し、百姓はその恩恵を長く蒙ったという。聖武天皇より大僧正位授けられる。人々から行基菩薩と称された。 |
本阿弥光悦 |
旧2/3 |
寛永十四年(1637) |
安土桃山・江戸前期の芸術家。(生)京都。近衛信尹・松花堂昭乗と共に寛永三筆の1人。京都三長者(後藤・茶屋・角倉)に比肩する富豪で、代々刀剣の鑑定・魔礪(とぎ)・浄拭(ぬぐい)を家職とした本阿弥家に生れる。熱烈な法華経信仰を根幹とする一族の厳格な節倹・誠心を光悦も失うことなく成長。和学の教養と独自の書風(光悦流)を身につけて、美術工芸面に金字塔を打ちたてた。角倉素庵に協力して出版した嵯峨本や、俵屋宗達の下絵に揮毫した歌巻・色紙、さらに蒔絵・茶碗などは、当代の日本文化の花と讃えられる。茶の湯の師古田織部が自害した1615(元和1)徳川家康から洛北鷹峰の地所を与えられ、家職は養嗣子光瑳に譲って移住し。〈皆法華〉の芸術村を築いて、題目三昧と創作・雅遊の晩年を送った。友人は公卿・武士・僧など広汎に及んだ。 |
大石良雄 |
旧2/4 |
元禄十六年(1703) |
江戸中期、赤穂四十七士の首領。播磨国赤穂藩の家老。1701(元禄14)藩主浅野長矩が吉良義央を江戸城で傷つけ、死を命じられ封地召上げとなった。幕府から城あけわたしを命じられ、はじめそれに抵抗をはかったが、広島の浅野氏らに説得されて開城。大石は主家の再興を図り仕官の道を断って京都山科に移った。しかし浅野家再興の望みが絶えると、ついに復讐の覚悟をきめ、周到なる計画をたて47人の同志の結束のもとに、元禄15年12月14日(1703.1.30)吉良邸に討ち入り、義央の首をあげた。 |
小堀遠州 |
旧2/6 |
正保四年(1647) |
江戸前期の茶人・武将。(生)近江国小堀村。本名政一。普請奉行として豊臣秀吉、徳川家康・秀忠・家光に仕え、仙洞御所・大坂城本丸・二条城二の丸・江戸城西の丸の作事に当たる。政一の作事・指図による茶室には大徳寺龍光院の密庵、同孤篷庵の忘釜、南禅寺金地院八窓の席などがある。その交友範囲は八条宮智仁親王・近衛応山・木下長嘯子・江月宗玩・清水道閑などきわめて広く、茶道・歌道・書・陶芸などの多くの才能も交友から得たものが多い。茶器の鑑定に特にすぐれ、大名物に次ぐ中興名物茶器を選定し、製作に当たっても独自の作風を示して〈綺麗さび〉と称された。 |
各務支考 |
旧2/7 |
享保十六年(1731) |
江戸前・中期の俳人。(生)美濃国山県村北野。蕉門十哲の1人。幼時より俳才を発揮、元禄のはじめ頃松尾芭蕉の門に入り、森川許六とともにその論客として名をあげたが、その性格は利己主義に徹し、死後の世評をきくために死をいつわり、その後は自ら門人として自分の著書を評釈して普及させたりしたので、同門から悪評を受けた。美濃派をひらき、その影響は全国に及んだ。 |
広瀬惟然 |
旧2/9 |
永八年(1711) |
江戸中期の俳人。(生)美濃国関。1688(元禄1)松尾芭蕉に会って以後その風を学び、晩年の芭蕉に近侍し、蕉風の秀句を作った。芭蕉没後は極貧を楽しみ、無技巧・口語句・無季語など独特の主張と句作をしたが、やや軽薄の気味がある。各地を旅行し、奇行も多い。 |
西行法師 |
旧2/15 |
建久元年(1190) |
平安後期の歌人。1140(保延6)出家し、仏法修行と和歌の道にはげむ。長く高野山を中心に仏道を修行、僧として平清盛・時忠と交渉をもつ。西行は伝統や形式にとらわれず、仏教の世界観を基礎としつつ、その孤独・漂白の人生と自然観照を自己の生活体験にもとづいて歌い、独自の抒情的歌風を確立した。没後編纂された「新古今集」には94首収められた。 |
雪舟 |
旧2/18 |
永正三年(1506) |
室町後期の画家。(生)備中国赤浜。1486には夏圭に倣う「山水長巻」(毛利報恩会蔵)の大作を遺している。`96(明応5)の「慧可断臂図」(斎年寺蔵)には達磨と神光の息苦しい対面を冷徹に表現した。最晩年期の1501〜06(文亀1〜永正3)には、真景の「天橋立図」を描いて、雲気立ち昇る自然を広い視野で把える自由の境地に到達した。 |
菅原元政 |
旧2/18 |
寛文八年(1668) |
江戸時代の歌人。菅原元政上人。「深草の元政」と言われた。深草の瑞光寺に没している。遺跡のある京都の伏見深草の、俗に元政庵と呼ばれた瑞光寺では、毎年三月十八日、遺品の展覧や茶事を行なって、上人の忌を修している。京都の人で、詩歌・茶道に長じ、江戸で吉原三浦屋の二代高尾と契り、高尾自殺の後、諸行無常を悟って発心した。「草山和歌集」「扶桑隠逸伝」「元々唱和集」など著書も多い。 |
聖徳太子 |
旧2/22 |
推古二十九年(621) |
推古期の摂政。587(用明2)蘇我馬子とともに物部守屋を討つ。`93(推古1)女帝推古天皇の即位と同時に皇太子となり、女帝を補佐して摂政となり大臣蘇我馬子とならんで政務をとる。中央集権化と官司制の基礎を作ったが、603冠位十二階の制定、`04憲法十七条の制定はその主な事業とされる。5世紀以来絶えていた中国との国交を開き、`07小野妹子を遣隋使として派遣するなど、数次にわたって使を送る。もう1つの功績とされるものは仏法興隆である。四天王子・法隆寺・法起寺・中宮寺等は太子の発願によって建立されたと伝えるほか、元興寺金堂の丈六像を造立し、秦河勝に仏像を授けて蜂岡寺(広隆寺)を造らせた。 |
後鳥羽院 |
旧2/22 |
延応元年(1239) |
後鳥羽天皇(在位1183〜1239)。1183(寿永2)平家都落ちの直後、践祚。`96(建久7)源通親が九条兼実を退けて廟堂の実権をにぎると、`98子の土御門天皇に譲位し、院政を開始。1202(建仁2)通親急死以後、自らの意思に基づいた政治を行ない、西面の武士を新設するなど朝権回復の施策を強行。`21(承久3)執権北条義時追討の宣旨を発し、承久の乱を起こしたが、後鳥羽上皇方を支持する武士は予想外に少なく、大敗。院政が停止され、所領も没収されて隠岐島に配流される。還洛の望みをもっていたが、はたせず同島で没した。没後、顕徳院の諡号が贈られたが、怨霊の出現をおそれられ、`42(仁治3)後鳥羽院に改められた。文武両道にわたって多芸多才で、和歌・蹴鞠・管弦に長じ、囲碁・双六・闘鶏・水練・流鏑馬なども好んだ。水無瀬殿・二条殿など数多くの御所や離宮を造営・修築し、熊野詣も延べ31回に及ぶ。`01和歌所を設け藤原の定家らに「新古今集」の撰進を命じ、自ら添削を加え、`05(元久2)一応完成した。 |
内藤丈草 |
旧2/24 |
宝永元年(1704) |
江戸前・中期の俳人。(生)尾張国犬山。京都蕉門の中村史邦と親交をむすんだことから、俳諧の道に志した。京都深草に住み、松尾芭蕉に入門したのは、1689(元禄2)ころといわれる。その句風、〈うづくまる薬の下の寒さかな〉(芭蕉看護のときの吟)のように、やや観念的であったが、閑寂・清簾な生活態度で独特の句境をひらいた。芭蕉の遺風を終生わすれず、蕉門の俳人のなかで、ことに純粋であったという。蕉門十哲の1人。 |
菅原道真 |
旧2/25 |
延喜三年(903) |
平安前期の官僚・文人。(生)左京:菅原院という。家学である文書道をよくし、11歳で初めて詩を詠み、15歳で刑部福主四十の賀の願書を草するほどであった。886(仁和2)讃岐守、`90(寛平2)帰任ののち翌年蔵人頭となり、ついで式部少輔、左中弁、左京大夫をへて、`93には参議兼式部大輔となった。その後、左大弁、勘解由長官、春宮亮などをへて、`94には遣唐大使となったが、在唐中僧_の奏状などによりその中止すべきことを奏し、停廃となった。その翌年従三位中納言となり、さらに民部卿を兼ね、正三位権大納言右大将となり、`99(昌泰2)には右大臣となった。翌年三善清行が辞職をすすめたが、その予想どおり、901(延喜1)従二位に叙せられた直後、藤原時平の讒言により大宰権師に左遷され、`03任地で失意のうちに59歳で没した。その作品は「菅原文草」「菅原後集」などに収められているが、とくに唐の単なる模倣ではなく、日本の心情を描写したものとして著名である。その不遇な最期から、死後天神信仰などとして民衆に強い影響を与えた。 |
千利休 |
旧2/28 |
天正十九年(1591) |
安土・桃山時代の茶人。草庵での簡素で静寂と清浄を旨とする侘数寄の茶道大成し、茶器および諸道具に創意工夫をこらした。今井宗久・津田宗及に随伴して織田信長に殊遇され茶頭となり、さらに豊臣秀吉に寵遇されてその茶頭となった。`85(天正13)利休居士を名のり始め、`87秀吉主催の北野大茶会では宗及らと後見役をつとめ、聚楽第の利休屋敷に設けられた茶席不審庵の名は、大徳寺の僧で宗訴の法嗣である古渓宗陳の語から名付けられたものである。小田原の役後、大徳寺山門に寄進した金毛閣上に自像を配したことから秀吉に罪せられ、`91自刃した。 |
榎本其角 |
旧2/30 |
宝永四年(1707) |
江戸前・中期の俳人。(生)江戸掘江町。医者であり、俳人であった父の影響で幼くして蕉門に列した。その才能は目覚しいものがあった。蕉風の確立といわれた「虚栗(みなしぐり)」を同門の服部嵐雪とともに編纂した。しかし、この頃から生来の豪放生活に浸るようになり、飲酒放吟の日々を送るようになった。これを戒めた松尾芭蕉の句〈朝顔に我はめし喰う男哉〉が「虚栗」にのせられている。こうした性格は、俳風に当然表現され、芭蕉の枯淡の風とは逆に、市井の人々の生活を華やかに唱った。蕉門十哲の1人。 |
菊地寛 |
3/6 |
昭和二十三年(1948) |
大正・昭和期の小説家・劇作家。(生)香川県。一高同級の芥川龍之介・久米正雄らと1916(大正5)第4次「新思潮」を創刊。同誌に戯曲「屋上の狂人」「海の勇者」「奇蹟」「父帰る」などを発表。のちには広く知られるようになったこれらの戯曲も当時は世評に上らず、「時事新報」の記者となる。その後、江口渙のすすめで小説にむかい、`18「無名作家の日記」「忠直卿行状記」、`19「恩讐の彼方に」を発表。これらの小説によって一躍流行作家となり、第1創作集「心の王国」を出版、記者をやめ作家生活に入る。やがて`20「真珠夫人」などの通俗小説に進んだ。`23雑誌「文芸春秋」を創刊、出版事業の進展につれて創作から離れていったが、新人発掘などに功績を残した。彼の名を記念して`53菊地寛賞が制定された。 |
富沢赤黄男 |
3/7 |
昭和三十七年(1962) |
昭和時代の俳人。(生)愛媛県。「ホトトギス」等への投句をへて、日野草城の「旗艦」参加。青春のうっ屈した心情を現代詩的用語で詠い、新興俳句のホープとなる。 |
原民喜 |
3/13 |
昭和二十六年(1951) |
昭和期の小説家・詩人。(生)広島県。鋭い感受性で時代の様々な思想の影響を受け、「三田文学」などに小説や詩を発表。広島での原爆体験は1947の小説「夏の花」に鮮明に描かれた。朝鮮戦争の勃発に衝撃を受け鉄道自殺をとげた。 |
青木月斗 |
3/17 |
昭和二十四年(1949) |
明治・大正・昭和期の俳人。(生)大阪。正岡子規の影響を受け句作に励む。一時新傾向運動に参加したが〈ホトトギス派〉俳人として大阪俳壇確立に貢献。多作ながら個人句集の出版を嫌い、没後に「月斗翁句抄」が出された。 |
吉岡禅寺洞 |
3/17 |
昭和三十六年(1961) |
大正・昭和期の俳人(生)福岡。「天の川」。九大俳句会。近代的な感覚を持ち、無季俳句にも目を向けている。 |
室生犀星 |
3/26 |
昭和三十七年(1962) |
大正・昭和期の詩人・小説家。(生)石川県。裁判所・新聞社に勤務しながら俳句を学び詩作を始める。1918処女詩集「愛の詩集」、ついで「抒情小曲集」を出版。破格の文語を自由に駆使した抒情詩は強い感動を与え、才能にめぐまれた詩人として知られるに至る。芥川龍之介・佐藤春夫を知りその影響で小説も書き始め、「幼年時代」「美しき氷河」など散文詩風の自伝的小説を発表、小説家としても認められた。また芭蕉研究にも没頭、東洋的枯淡への愛好も示した。文壇の主流から離れ自己の境地を守るいきかたで、昭和に入ると「あにいもうと」「復讐」など発表、旺盛は創作ぶりを示した。戦後も盛んな活動を見せ、「舌を噛み切った女」や随筆「女ひと」、評伝「我が愛する詩人の伝記」など著した。`48(昭和23)芸術院会員。 |
島木赤彦 |
3/27 |
大正十五年(1926) |
明治・大正期の歌人。(生)長野県。正岡子規の短歌革新に心ひかれ伊藤左千夫に師事。1908「アララギ」に参加し作歌に努めた。`13(大正2)中村憲吉と共著で処女歌集「馬鈴薯の花」を出版、翌年教師を辞して上京。左千夫亡きあと「アララギ」の編集に当り、以後〈アララギ派〉の発展に尽力した。その中心は「万葉集」研究と写生論の発展におかれ、斎藤茂吉らと共に歌論の研究と普及につとめ、また作歌にも力を入れた。〈アララギ派〉の代表的歌人として知られ、歌集「氷魚」、歌論集「万葉集の鑑賞及び其批評」などがある。 |
西東三鬼 |
4/1 |
昭和三十七(1962) |
昭和期の俳人。(生)岡山県。1934(昭和9)頃から句作を始めた。戦後俳誌「天狼」創刊に加わったが`52から「断崖」を主宰、歯科医から俳句に専念した。主な句集は「夜の桃」「今日」「変身」など。 |
高村光太郎 |
4/2 |
昭和三十一年(1956) |
大正・昭和期の彫刻家・詩人。(生)東京。6歳のころから小刀を持つ。1904ロダンの「考える人」の写真を見て感銘を受け、自分の彫刻の文学臭を反省する。`06渡米、`07ロンドン`08パリ、`09帰国。`10「緑色の太陽」を「スバル」に寄稿、また既成美術界の因習を執拗に批判するなど、新時代の美術鼓吹に努めた。`14長沼智恵子と結婚。同年、詩集「道程」、「智恵子抄」(`41)を刊行。このころから美術界と交渉を絶って彫刻と「ロダンの言葉」の翻訳に力を注いだ。多くの作品が戦災で焼失したが、大正期の彫塑には「裸婦」「手」などがあり、`24から`30(昭和5)ごろにかけて木彫「蝉」「蓮根」などがある。`32「黒田清輝胸像」、`35「光雲胸像」を制作、いずれも堅固な構築性をもち代表作とされる。 |
三好達治 |
4/5 |
昭和三十九年(1964) |
昭和期の詩人。(生)大坂。1930「測量船」を出版、典雅な抒情詩人として知られた。次いで「南窗集」「間花集」「山果集」等を出版。のちに合本詩集「春の岬」にまとめられ代表詩集として広く読まれた。日本の伝統を生かした独自の詩風で、昭和期における古典派の代表詩人と称せられた。敬愛した萩原朔太郎の死に際しての挽歌は傑作として知られ、評論集「萩原朔太郎」も優れた業績である。 |