(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
柴屋軒宗長 |
旧3/6 |
天文二年(1532) |
室町後期の連歌師。(生)駿河国島田。18歳のとき清見関で連歌師飯尾宗祇に初対面し、以後30有余年師事。和歌にも巧みで古今伝授を受けたほどだが、終生連歌師に徹した。大徳寺の一休宗純に参禅し、のちに秘蔵の「源氏物語」を売却して、その代金を大徳寺三門の建立に充当した話は名高い。師の宗祇の没後、連歌界に重きをなして公家・諸大名らと親交。 |
空海 |
旧3/21 |
承和二年(835) |
平安初期の名僧。真言宗の開祖。(生)讃岐国多度郡弘田郷屏風浦(善通寺市)。804遣唐使藤原葛野麿の第1船により最澄らとともに入唐し、長安に到り青龍寺の恵果に就き密教大法の伝授をうけ、`06(大同1)帰国し、翌年「請来目録」を平城天皇に献じた。`10(弘仁1)高雄山寺で最初の鎮護国家の修法を行い、翌年「劉希夷書上表」などから嵯峨天皇と親交がはじまる。最澄とは`09ころから交際があったことが「風信帖」で知られ、`12の灌頂には最澄の入壇がみえるが、`16門弟の問題にからみ交わりを絶つ。同年、紀伊国高野山の地を賜り金剛峰寺の基を開き、`23未完成の東寺(教王護国寺)を得て、真言密教の道場とする。`30大僧都となり「秘密曼荼羅十住心論」を著し、`34(承和1)毎年の宮中後七日御修法を許可される。翌年高野山で没した。書道に秀で〈三筆〉の一人。 |
蓮如 |
旧3/25 |
明応八年(1499) |
室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第八世。1420(応永27)生母に別れ、幼くして当時不振の本願寺教団を再興する志を立てたといわれる。宗学を父からうけたほかは独学。その教えは、「王法為本」を説いて、現世権力との対立をさけた。多くの「御文章」(御文)を作って宗義を一般大衆に広め、宗祖の正信念仏偈を和讃にして、儀式を簡略化することに努めた。`81に山科本願寺を再興。その豪壮なことは当時の人々を驚かした。このころから、仏光寺経豪・証誠寺善鎮・錦織寺勝慧らが活躍し、本願寺教団の興隆をみるにいたった。 |
大塩平八郎 |
旧3/26 |
天保八年(1837) |
江戸後期の儒学者・陽明学者。(生)大坂天満川崎四軒坊。儒学・経学に努め、江戸に遊学して林家の門をたたいた。祖父没後家督を相続。1816呂新吾「呻吟語」をよみ、これより陽明学におもむき、翌年家塾〈先心洞〉を設けて子弟を教授し、高井山城守実徳と親交を結んだ。`30高井が退職すると、平八郎は跡を養子格之助に譲り、以来専ら著述と教授に努力。`34には「洗心洞箚記」3巻を著し、門人をひきいて、富士山頂の石室に収め、伊勢神宮にも奉納した。大坂町奉行矢部定謙は平八郎から、その引退後も政治上の進言をうけたことがあった。`36江戸町奉行に転じた矢部の後任跡部山城守とは合わず、おりからの天保飢饉に際して、平八郎は上書して救済をたのんだが、いれられなかった。書籍を売って救恤に努めたが、ついに門弟と共に峰起して失敗、しばらくの潜伏後、捕吏に包囲され自殺した。 |
八百屋お七 |
旧3/27 |
天和三年(1683) |
江戸前期の歌舞伎狂言のモデル。「天和笑委集」によれば、1682(天和2)12月28日の大火で一家類焼し、避難先の正仙院でこの寺の生田庄之介と恋に落ちた。のち元の家に帰ったが、翌年1月、再会したい一念で放火を企て、捕らえられて3月28日、品川鈴の森(のち鈴ヶ森)で火刑に処せられた。井原西鶴「好色五人女」など多くの浄瑠璃・歌舞伎に脚色され、広く親しまれた。 |
西山宗因 |
旧3/28 |
天和二年(1682) |
江戸前期の連歌師・俳人。(生)肥後国八代。1647(正保4)大坂天満宮へ下り、連歌所宗匠となり、以後各地を旅行し、`64(寛文4)豊前国小倉で即非如一禅師と会い、`70受戒、西翁を居士号とした。一方俳諧にも嗜みが深く、すでに俳諧作品もあったが、この受戒に前後する頃活発となり、`73(延宝1)「宗因千句」を刊行。つづいて`75「談林十百韻」を興行し、いわゆる談林俳諧の新風を巻き起こすに至った。談林は奇抜な発想、軽口狂句にあふれ、貞門俳句と真向から対立。両派の激しい論争が生れたが、宗因は門弟に井原西鶴、岡西惟中ら秀才があり、貞門を駆逐して流行した。のちに松尾芭蕉も談林を学んで蕉風を確立したことは有名。 |
玉菊 |
旧3/29 |
享保十一年(1726) |
江戸中期の吉原遊女。名妓玉菊を悼んでの馴染の茶屋連による新盆の切子灯篭の飾りは廓内に意外な風情を醸しだし、「玉菊灯篭」として年中行事であった。 |
尾崎放哉 |
4/7 |
大正十五年(1926) |
明治・大正期の俳人。(生)鳥取県。没後、荻原井泉水編で句文集「大空」「放哉書簡集」が出版された。近年にいたり、その業績と生涯に対する関心が強まり再評価がすすめられてている。自由律俳句に優れた才能を示す。 |
高浜虚子 |
4/8 |
昭和三十四年(1959) |
明治・大正・昭和期の俳人・小説家。(生)愛媛県。正岡子規の師事。1896(明治29)「国民新聞」俳句選者となり、`98に「俳句入門」を出版。「ホトトギス」を主宰した。同誌に句作・俳論を執筆したほか1907年頃から主力を小説に注ぎ、「風流懺法」「斑鳩物語」「大内旅館」などを発表。`08最初の短篇小説集「鶏頭」を出版。同年長篇小説「俳諧師」、`09「続俳諧師」を連載して小説家としての才能を示した。他に長篇「柿二つ」、短篇集「虹」などが知られる。`13(大正2)俳壇復帰の決意を表明するとともに〈守旧派〉と称し〈新傾向俳句〉に挑戦する姿勢を示した。子規のあとを受けつぎ〈ホトトギス派〉の隆盛に寄与、多くの優れた俳人を育成した。 |
窪田空穂 |
4/12 |
昭和四十二年(1967) |
明治・大正・昭和期の歌人・国文学者。(生)長野県。1911小説集「炉辺」、`13(大正2)小品集「旅人」や`14翻訳「小公女」を出版。`14文芸雑誌「国民文学」を創刊。紀行・随筆も書いたが、歌集「濁れる川」「鳥声集」「土を眺めて」を出版して歌人として才能を示した。`20から母校の教壇に立ち、国文学者・歌人としての活躍のほか多くの後進の指導に尽力した。 |
石川啄木 |
4/13 |
明治四十五年(1912) |
明治時代の詩人・歌人・評論家。(生)岩手県南岩手郡日戸村〜現玉山村玉山。1905最初の詩集「あこがれ」を出版、明星派の詩人として知られるようになった。`10歌集「一握の砂」は三行書きの新形式、新鮮・大胆な表現、内容の深刻さなどによって歌人としての啄木が広く知られる。 |
川端康成 |
4/16 |
昭和四十七年(1972) |
昭和期の小説家。(生)大阪。1929(昭和4)短篇集「伊豆の踊子」を出版。`48連作形式で発表してきた「雪国」を完結出版。同年日本ペンクラブ会長に就任。`52「千羽鶴」で芸術院賞受賞。`61文化勲章受章。`68ノーベル文学賞を受賞した。日本的抒情文学の代表的作家。晩年、門下の三島由紀夫が割腹自殺したりして強度の精神的動揺をきたし、ガス自殺した。 |
内田百聞 |
4/20 |
昭和四十六年(1971) |
明治・大正・昭和期の小説家・随想家。(生)岡山県。夏目漱石の門に入り、1922(大正11)短篇小説「冥途」を出し、その超現実的・散文詩的な作風で芥川龍之介などに推賞された。その後しばらく沈黙していたが、昭和に入ってユーモラスな味を持つ随筆家としてその才能を示した。`33(昭和8)「百鬼園随筆」、`34「続百鬼園随筆」、`35「鶴」などが代表的なものである。 |
中里介山 |
4/28 |
昭和十九年(1944) |
明治・大正・昭和期の小説家。(生)東京。1909から「都新聞」に小説を連載する機会を得て、`13(大正2)第6作目の「大菩薩峠」が好評を博し`21まで同紙に連載、以後その死に至るまで書きつがれ未完に終る大作となった。 |
永井荷風 |
4/30 |
昭和三十四年(1959) |
明治・大正・昭和期の小説家。(生)東京。1902(明治35)「野心」「闇の叫び」「地獄の花」を発表して注目されたが、翌`03から外遊。`08帰国後「あめりか物語」「ふらんす物語」「歓楽」「すみだ川」「冷笑」など多くの作品を発表し〈耽美派〉を代表する流行作家となった。`10から慶応義塾文科教授となり「三田文学」を主宰、同誌に随筆や小説・戯曲を発表。晩年は風変りな生活ぶりで話題を呼ぶ。`52文化勲章受章。 |
大佛次郎 |
4/30 |
昭和四十八年(1973) |
大正・昭和期の小説家。(生)横浜。1924(大正13)「鬼面の老女」に始まる鞍馬天狗を主人公とする連作で認められ作家生活に入る。時代物としては`27「赤穂浪士」、`44〜`46「乞食大将」などがあり、現代物では`48「帰郷」、`49「宗方姉妹」`52「旅路」が代表作。史伝物としては「ドレフェス事件」から「パリ燃ゆ」に至る4部作と絶筆となった「天皇の世紀」がある。自由な市民精神、知性、道徳的清潔さ等が幅広い読者をひきつける魅力となっている。 |