(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
牡丹花肖柏 |
旧4/4 |
大永七年(1527) |
室町後期の連歌師。飯尾宗祇の弟子。1488(長享2)正月に宗祇・柴屋軒宗長とともに摂津国水無瀬神宮御影堂に参詣し、「水無瀬三吟百韻」を奉納した。和歌にも長じ、宗祇を通じて古今伝授を受け、家集「春夢草」をのこす。「源氏物語」「伊勢物語」など古典に通暁。〈三愛〉と称して花、香、酒をこよなく愛し、風雅の人生を生きた。 |
尾形光琳 |
旧4/6 |
享保元年(1716) |
江戸中期の画家・漆芸家。(生)京都。はじめ高尚な趣味人父宗謙に学び、のち狩野派の山本素軒に学ぶ。大和絵を志し、本阿弥光悦・俵屋宗達に私淑し、相説・蘆舟・野々村仁清などの影響を受けて〈光琳模様〉といわれる独自の装飾的大和絵画風を確立する。元禄期を代表する芸術家であり、伝統的技法を新しい時代感覚で展開させた点に真価がある。画業のほかにすぐれた意匠を陶器の絵付、蒔絵の硯箱や印籠、小袖の描絵などの分野にも発揮している。 |
大田南畝 |
旧4/6 |
文政六年(1823) |
江戸後期の文人。(生)江戸牛込。1766(明和3)「明詩櫂材」を出版、詠詩の生活に入る。`67「寝惚先生文集」で好評を得た。安永年間(1772〜80)は詩文が主、狂歌・戯曲が従で、酒落本・噺本があり、天明年間(1781〜88)に入っては、狂歌が主となり、黄表紙、狂詩にも筆を染めた。`87(天明7)39歳のとき狂歌・戯作も筆を折り、`94(寛政6)湯島聖堂の学問吟味に首席で及第、翌年支配勘定に昇進。大坂銅座詰、長崎奉行詰、玉川治水視察を経て、以後は勘定所に出勤し、能吏として活躍した。この間「三餐余興」「調布日記」などの紀行文・日記や、「一話一言」などの随筆、「麓の塵」などの抄写本を多数著わし、各方面の文人・芸能人と交わり、江戸市民文化の中心的存在であった。 |
池大雅 |
旧4/13 |
安永五年(1776) |
江戸時代中期の南画家。(生)京都北山。大雅の画家としての評価は、第2次世界大戦を境に大きく変化した。すなわち、煎茶趣味的な床の間鑑賞から、西欧的な遠近法を南画の空間構成に導入した俯瞰構図で自由な視点の移動による自然の再構成と、自由奔放な筆致および鮮やかな点描風の色彩感などに評価が移っている。近世奇人伝中の人として伝えられるが、売画を排し、中国文人の晴耕雨読を理想として、教養を深め画技の精進に生涯をかける清貧・孤高の境地に徹しようとする姿勢が、世俗的には奇行と評された。 |
心敬 |
旧4/16 |
文明七年(1475) |
室町前期の連歌師。(生)紀伊国名草郡田井荘。20歳なかば頃から清厳正徹に師事して和歌・古典を学んだ。27歳の年、将軍足利義教の北野社法楽一日万句の会で連歌界に登場し、生来の虚弱の身にたえながらこの道に打ちこんで、飯尾宗祇をして先達の七賢の第一に数えしめた。若年の作風、意欲的なあまり東常縁から〈道の零落〉と批難されたが、すぐれた象徴性と非論理性を骨格とするその作風は年を経るにつれて熟し、〈常に飛花落葉をみても草木の露を眺めても此の世の夢幻の心を思ひとり、振舞ひをやさしくし、幽玄に心をとめよ〉とする、深い境地を得て、宗祇、さらには後世の松尾芭蕉にまで影響を与えた。連歌論書「ささめこと」はその代表的著作。 |
徳川家康 |
旧4/17 |
元和二年(1616) |
江戸幕府の初代将軍。(生)三河国岡崎。秀吉の死後、1600(慶長5)関ヶ原の戦いで宇喜多・島津・長宗我部・石田・小西らの西軍を破り対抗勢力の一掃に成功。`03征夷大将軍に任ぜられたが、`05職をその子秀忠に譲り大御所と呼ばれた。引退後は駿府に住した。`14〜`15(元和1)の大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし天下統一に成功した。 |
杉田玄白 |
旧4/17 |
文化十四年(1817) |
江戸中・後期の蘭方医。(生)江戸小浜藩邸。1771(明和8)3月4日、江戸千住骨ヶ原(小塚原)で前野良沢・中川淳庵らと女の腑分けを目撃し、良沢・玄白が携行していた「ターヘルーアナトミア」と対比して、その図説の身体内景の実際とよく一致するのに感心して、翌日より良沢・淳庵らと翻訳に着手、4年間の苦心のすえ`74(安永3)「解体新書」5巻として完成刊行した。1815(文化12)大槻玄沢の力をかりて成った回想録「蘭学事始」に記された「解体新書」翻訳の苦心談はよく知られている。 |
葛飾北斎 |
旧4/18 |
嘉永二年(1849) |
江戸後期の浮世絵師。(生)江戸本所割下水。初期の作品の「東都名所」「隅田川両岸一覧」は、これまで浮世絵師が自然を人物の背景としてしか見なかったのに反して、自然と人間との調和を描き、浮世絵史上画期的な意義がある。また1814(文化11)から刊行された「北斎漫画」15篇は、庶民生活を余すところなく描写し、その軽快な筆致は絶妙。`32(天保3)の「富嶽三十六景」は構図の見事さも独特のものであるが、それにも増して注目すべきは、江戸開府以来庶民に親しまれてきた霊峰富士を画題に選んだことで、庶民の富士に対する親近感は、歌舞伎役者や遊里の美女に優るとも劣らないものがあった。生涯を通じ、あくなき探求心を燃焼させた北斎の画風は、ヨーロッパ印象画壇にも影響を与えた。 |
度会園女 |
旧4/20 |
享保十一年(1726) |
江戸中期の俳人。蕉門の女流俳人。伊勢山田の出身だが大坂に住み、元禄7年9月に芭蕉を迎えて連句会を催した。この句会からわずか半月後に芭蕉は世を去り、俳聖最期の句会となった。 |
三浦按針 |
旧4/24 |
天和六年(1620) |
江戸前期、最初に渡来したイギリス人航海士。(生)ケント州ジリンガム。本名はWilliam
Adams。1598オランダ東インド会社東洋遠征船隊に加わり出航、マゼラン海峡から太平洋を横断、モルッカ諸島へ向かう途中難破し、乗船リーフデ号は1600(慶長5)豊後に漂着した。大坂・江戸で徳川家康に謁す。相模国三浦郡逸見村に250石の所領と江戸日本橋に邸を与えられ家康の政治顧問として遇せられた。日本貿易有利の報告をイギリス東インド会社に送り船を平戸へ入港させ、ついで平戸の商館設立に尽力。 |
松平不昧 |
旧4/24 |
文政元年(1818) |
江戸後期の大名・茶人。1767(明和4)松江藩18万5千石を襲封。当時藩財政は窮乏をきわめたので倹約につとめて、家老朝日丹波茂保を中心に藩政の改革にあたらせた。茶道を好み、幼少のころは、斎川流や三斎流を学び、長じて伊佐幸琢の石州流を学び諸流を包容し大名茶を大成し、石州流不昧派をおこした。1806(文化3)家を子斎恒に譲ったのちも、天下の名器を蒐集し、京都大徳寺孤蓬庵中に大円庵を営んで廟所とするなど、当代の茶道の巨匠であった。 |
源義経 |
閏4/30 |
文治五年(1189) |
平安後期の武将。長門国壇ノ浦の海戦で平氏を全滅させた。兄頼朝の不興をかい、最期、奥州に藤原秀衝を頼ったが、1189秀衝の没後、頼朝の圧力に屈したその子泰衝によって、居所衣川館を襲撃され自殺した。その悲劇性のゆえに死後さまざまな義経伝説が生れた。 |
久保田万太郎 |
5/6 |
昭和三十八年(1963) |
大正・昭和期の小説家・劇作家。(生)東京。1911(明治44)小説「朝顔」と戯曲「遊戯」を永井荷風編集の「三田文学」に発表、水上滝太郎と共に荷風門下の〈三田派〉俊才として認められる。その後劇評家としても知られ、`17(大正6)「末枯」、`28(昭和3)「春泥」などの小説、`22「心ごころ」`25「短夜」などの戯曲を発表。〈浅草の詩人〉といわれるように東京の下町情緒を〈情緒的写実主義〉によって描き続けた。俳人としても知られ、句集「道芝」「流寓抄」がある。`57文化勲章を受章した。 |
佐藤春夫 |
5/6 |
昭和三十九年(1964) |
大正・昭和期の詩人・小説家。(生)和歌山県。1910(明治43)上京、生田長江に師事。「新詩社」同人となり、「スバル」「三田文学」などに詩歌・小品を発表。「スバル」系詩人として知られた。〈古典派〉の詩人で、`21(大正10)第1詩集「殉情詩集」をはじめ、`22「我が一九二二年」、`26「佐藤春夫詩集」などのほか漢詩の訳詩集もある。小説家としては`16「西班牙犬の家」で幻想的作風を示し、`19完成した「田園の憂鬱」によって新進作家として認められた。戯曲も書き、また知的洞察力と鋭い分析力をもつ評論家として文芸時評・文学史論に多くの業績を残した。`48芸術院会員、`60文化勲章を受章。 |
二葉亭四迷 |
5/10 |
明治四十二年(1909) |
明治時代の小説家・ロシア文学の翻訳家。(生)江戸。「浮雲」の作者として、「めぐりあい」等の優れた翻訳者として、さらに「小説総論」(1866)等の評論家として、日本の近代文学形成に果たした役割は大きい。 |
萩原朔太郎 |
5/11 |
昭和十七年(1942) |
大正・昭和期の詩人。(生)群馬県。1916(大正5)室生犀星と詩誌「感情」を創刊。翌年処女詩集「月に吠える」を出版。豊かな感受性と口語による優れた表現力で孤独・不安・焦燥などの心象をうたい注目を集めた。`23第2詩集「青猫」を出版。〈哀傷と倦怠による詩情〉(自序)を、日本語の特殊性を生かした〈自由詩のリズム〉を創造することによってみごとに表現、詩壇にゆるぎない地歩をきずいた。日本口語詩の完成者として知られ、その詩が与えた影響は大きい。 |
松本たかし |
5/11 |
昭和三十一年(1956) |
昭和期の俳人。(生)東京。代々宝生流の能役者の家に育ち、8歳から舞台に立つ。大正9年、病気療養中に「ホトトギス」を読み、俳句に興味をいだき、その後、能役者仲間の句会「七宝会」へ出席、やがて高浜虚子に師事する。病弱なため能役者になることを諦め、20歳の頃から本格的に俳句に取組み、昭和4年ホトトギス同人となり、川端茅舎と並称され、「生来の芸術上の貴公子」と茅舎によって評された。昭和10年「松本たかし句集」を刊行、「鷹」「弓」「野守」と句集を出版し、昭和21年、主宰誌「笛」を創刊する。 |
北村透谷 |
5/16 |
明治二十七年(1894) |
明治時代の評論家・詩人。(生)神奈川県。1881(明治14)に上京。自由民権運動、とくに三多摩地方の自由党の運動に接し政治家を志す。大阪事件の計画にも参加したが、運動のあり方に疑問を感じて小説家になることを志す。政治小説を書くことを考えていたらしいが果たせず苦悩、石坂美那子と恋愛し`88に結婚。その翌年長詩「楚囚之詩」を発表。次いで`91劇詩「蓬莱曲」を書き詩人としての新しい出発を始めた。この劇詩では、自己と現実との対立を自己内部の霊と肉との対立と重ねあわせて展開し、彼の眼が自己の内面への追求にむけられていることを示した。この追求は後に評論によって一層深められるが、一方でこの劇詩の持っていた浪漫的抒情性は、詩「ほたる」「蝶のゆくへ」などへと発展した。 |
坂本四方太 |
5/16 |
大正六年(1917) |
明治・大正期の俳人・写生文作家。(生)鳥取県。高浜虚子・河東碧梧桐に俳句を手ほどきされ、上京後は正岡子規の指導を受ける。のちに子規の唱える写生文に力を注ぎ、作品を「ホトトギス」に発表した。自伝性の濃い「夢の如し」が代表作。 |
河竹黙阿弥 |
5/22 |
明治二十六年(1893) |
幕末・明治前期の歌舞伎作者。(生)江戸日本橋。5代目鶴屋南北の門人。1854(安政1)から4代目市川小団治と提携し「蔦紅葉宇都谷峠」「青砥稿花紅彩画」などの傑作が書かれた。`67〜`81(慶応3〜明治14)は全盛時代で、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎らのために「天衣粉上野初花」「島鵆月白浪」などがあり、活歴物、散切物など時代の変転に対処して新分野を開拓しようとした。 |
堀辰雄 |
5/28 |
昭和二十八年(1953) |
昭和期の小説家。(生)東京。芥川龍之介に師事。1930(昭和5)短篇集「不器用な天使」を出版、同年発表の「聖家族」で文壇にみとめられた。その後、プルースト、モーリアック・リルケらの影響を受けるとともに日本の古美術や王朝文化への深い関心を示し、知性と抒情の融合による独自の作風を創りあげていった。雑誌「四季」などによって後進に与えた影響も大きい。また、しばしば訪れた大和路や木曽路の旅から生れた「大和路・信濃路」などエッセーにもすぐれたものが多い。 |
与謝野晶子 |
5/29 |
昭和十七年(1942) |
明治・大正・昭和期の歌人・詩人。(生)大阪。関西青年文学会に参加。1900(明治33)来阪した与謝野寛(鉄幹)・山川登美子を知る。`01家を捨てて上京。同年、処女歌集「みだれ髪」を出版し、鉄幹と結婚した。奔放自由に青春の情熱と人間讃歌を歌いあげたこの歌集は〈明星派〉の指標となるとともに、近代日本文学史上浪漫主義詩歌の成立をつげる記念碑的作品となった。`05山川登美子・茅野雅子との合著詩歌集「恋衣」を出版、これは日露戦争に際して歌われた有名な反戦詩〈君死にたまふこと勿れ〉が収められている。`06「舞姫」を頂点として情熱の沈潜がみえ歌風も平淡になっていくが、浪漫的心情と作歌への情熱を生涯持続けた。 |
橋本多佳子 |
5/29 |
昭和三十八年(1963) |
昭和期の俳人。(生)東京。1917(大正6)橋本豊次郎と結婚、`20小倉に移り住む。杉田久女に俳句の手ほどきを受け、「ホトトギス」に投句。`29(昭和4)には大阪に移り高浜虚子、山口誓子へと師事し、「馬酔木」同人となる。`48より「天狼」に同人として参加。`50「七曜」主宰となる。 |