(姓名) |
(忌日) |
(没年) |
高桑闌更 |
旧5/3 |
寛政十年(1789) |
江戸中・後期の俳人。(生)加賀国金沢。金沢に草庵を営み俳諧に遊び、後年医を業としながら京都東山双林寺内の庵に芭蕉像を安置し、毎年3月に芭蕉会を修し、「花供養」を刊行。この間、1763(宝暦13)「花の故事」、`71(明和8)「落葉考」を刊行し、芭蕉復帰を唱え、蕉風の隆盛に努めた。 |
鑑真 |
旧5/6 |
天平宝字七年(763) |
8世紀中葉、唐の高僧。来日して日本律宗の開祖となる。(生)中国楊子江陽県。742楊州の大明寺にあって律を講じていたが、`32遣唐使と共に入唐していた留学僧の栄叡と普照の来日要請にこたえて、〈法事のためなり、何ぞ身命を惜しまん〉と決意した。5度にわたる渡航の失敗と挫折にも屈せず、`53(天平勝宝5)一行24名と共に日本に到着。翌年2月奈良の都に入る。東大寺に住して戒壇を設立、聖武上皇、孝謙天皇らも受戒し、`56には大僧都となる。`59戒院を設立して招提寺(唐寺・唐招提寺ともいう)のもとを築く。3人の戒師と7人の証明者の立会う三師七証の新しい戒律を伝えて仏教界に大きな影響を与えたばかりでなく、天台の経典や薬物、王羲之・献之父子の真蹟をはじめとする品々、また唐招提寺の仏像・建築など、日本文化史上にも注目すべき役割を果たした。 |
足利義満 |
旧5/6 |
応永十五年(1408) |
室町幕府3代将軍。1366(正平21・貞治5)後光厳天皇から義満の名を賜わり、翌年父の死により10歳で家督を継ぎ、左馬頭に任ぜられる。`68(正平23・応安1)将軍職を継ぎ、管領細川頼之の補佐を受け、`78(天授4・永和4)京都室町に花の御所を営む。`92(元中9・明徳3)南北朝合一を成就し、また土岐・山名・大内など有力守護を制圧して、幕府権力を確立した。`94(応栄1)には太政大臣となり、武家として未曾有の栄進をとげた。`97京都北山に別荘として北山第(金閣)を建て、北山殿と称された。 |
立花北枝 |
旧5/12 |
享保三年(1718) |
江戸前期の俳人。(生)加賀国小松。蕉門十哲の1人。松尾芭蕉と1689(元禄2)2月、金沢で会し、その風を慕い入門、芭蕉と行をともにし、松岡に至った。「おくのほそ道」に、〈金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る〉とある。〈初霜や麦まく土のうら表〉の句が有名。 |
新井白石 |
旧5/15 |
享保十年(1725) |
江戸中期の儒学者・政治家。(生)江戸。主要著作の「読史余論」「藩翰譜」「古史通」は徳川綱豊(家宜)への進講のために書いたもので、すぐれた合理的な歴史思考を示しており、史学史上に占める地位が高い。宣教師シドッティの訊問によって成った「西洋紀聞」「采覧異言」は、彼の進歩的な合理的思考を示している。「東雅」などの言語学・文献学の著作も多く、学問領域の広さと先駆的な業績において近世屈指の大学者と目される。 |
宮本武蔵 |
旧5/19 |
正保二年(1645) |
江戸前期の剣豪。(生)美作とも播磨ともいう。関ヶ原の戦いで西軍に加わる。のち諸国を遍歴し、吉岡清十郎らと立合い二刀流の奥義を開眼する。生涯60数回の試合に敗れたことなしといわれる。とくに、1612(慶長17)豊前国船島での佐々木巌流との試合は有名。のち小倉藩に留まり。さらに熊本藩主細川忠利の客分となった。この間、大坂の陣、島原の乱鎮圧軍に加わったともいわれている。剣術の他、絵画・彫刻・金工にもすぐれていた。水墨画「枯木鳴鵑図」「鵜図」「布袋見闘鶏図」は有名。 |
石川丈山 |
旧5/23 |
寛文十二年(1672) |
江戸前期の文人。(生)三河国碧海郡泉郷。1615(元和1)大坂夏の陣で軍令に反して浪人となる。藤原惺窩に儒学を学び、安芸藩主浅野氏に仕えたが、のちに洛北一乗寺に居を構え〈詩仙堂(凹凸カ)〉と名づけ自適した。京都所司代板倉氏の庇護のもとに詩作・築庭などに非凡の才を示した。 |
楠木正成 |
旧5/25 |
延元元年(1336) |
南北朝時代の武将。建武政権樹立に貢献するところ多く、恩賞方・記録所の寄人に任ぜられ、雑訴決断所の奉行にもなった。新田義貞・名和長年らと武者所に勤務。世人は、名和伯耆守長年・結城親光・楠木正成・千種忠顕らの栄達ぶりを〈三木一草〉と称した。天皇から厚く信任され、名和・結城とともに天皇の身辺護衛の役に当たった。なお、「太平記」の中で中心的人物の1人として描かれたため、敗戦前は忠臣の代表として国民に喧伝された。 |
源頼政 |
旧5/26 |
治承四年(1180) |
平安後期の武将、歌人。1156(保元1)保元の乱には後白河天皇方に召され、`59(平治1)平治の乱には源義朝の召請に応じて出陣するが、中途で平清盛にくみした。乱後大内守護。`66(仁安1)昇殿を許され、`78(治承2)清盛の推挙で破格の従三位となる。`80以仁王に平氏打倒をすすめる。源行家をして、平氏追討の以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えさせた。時前に発覚して奈良に逃れようとして、宇治で追撃をうけ戦死した。武勇にひいで2度の鵺退治は有名。歌人としてもすぐれ、藤原俊成に〈いみじき上手〉と評され、新古今時代を準備した。 |
在原業平 |
旧5/28 |
元慶四年(880) |
平安初期の歌人。六歌仙の1人。概して政治的には不遇に終ったが、その原因は藤原氏の権力集中のためというよりは、20代後半から30代前半期にかけての彼の行動にあると考えられ、それがのちの業平伝説の素材になったらしい。純真多感な性格がそれに大きく作用し、その和歌には人間の真実や愛情の美しさが詠われ、王朝貴族の生活理念の結晶として後世のあこがれの的となった。和歌は「古今集」以下の勅撰集にみられ、また「伊勢物語」の主人公と目されている。 |
曾我時致 |
旧5/29 |
建久四年(1193) |
鎌倉前期の武士。わずか7歳の頃より兄祐成と共に父の仇討ちを決意。以来、その機会を狙い続けた。1193年5月28日、兄と共に富士野神野の館に父の敵工藤祐経を襲い、これを殺害。ついで源頼朝の所に走り寄り、搦め捕られたが、頼朝に仇討ちの因縁の一部始終を述べた。その後、勇士であるとの理由で赦されかけたが、祐経の子犬房丸の願いにより、梟首となった。この兄弟の仇討ちは「曾我物語」となって民衆の間に広く親しまれた。 |
太宰治 |
6/13 |
昭和二十三年(1948) |
昭和期の小説家。(生)青森県。1935(昭和10)小説「逆行」で芥川賞次席となり、同年「ダスーゲマイネ」を発表。翌年第1創作集「晩年」が刊行され作家として認められた。〈日本浪漫派〉に参加、佐藤春夫・豊島与志雄・井伏鱒二・壇一雄らと深い交流があった。戦後、坂口安吾・織田作之助らとともに流行作家として休む暇もないほど仕事に追われた。「晩年」を出した頃、佐藤春夫らの努力で一度治った麻薬中毒が忙しさの中で再発。`46「親友交歓」`47「トカトントン」「ヴィヨンの妻」「斜陽」`48「桜桃」「人間失格」などの作品を書き、同年未完の長篇「グッドーバイ」を残して6月19日東京三鷹の玉川上水に愛人山崎富栄とともに入水自殺した。毎年祥月命日に〈桜桃忌〉が三鷹の禅林寺で行なわれる。 |
国木田独歩 |
6/23 |
明治四十一年(1908) |
明治時代の詩人・小説家。1897(明治30)「独歩吟」を発表、まず詩人として認められた。同年の処女作「源をぢ」についで「武蔵野」「忘れえぬ人々」「河霧」「鹿がり」を発表、それらをまとめて1901第1創作短篇集「武蔵野」を出版、浪漫的詩人から小説家へとその才能を示したが、反響は少なく生活は苦しかった。作風は次第に写実的なものに変り、`02「富岡先生」「少年の悲哀」「酒中日記」、`03「正直者」「第三者」「女難」、`04「春の鳥」「夫婦」を発表。`05第2創作集「独歩集」も出された。その間、矢野龍渓に招かれ、`02近代画報社に入り編集に従事、`06から同社のあとをうけ〈独歩社〉を経営した。同年出版した第3創作集「運命」によってようやく作家として広く認められた。自然主義文学の先駆者といわれ、その作品には明るい肯定的系列と、暗い哀感・運命観をもつ作品群がある。現世的なものと超越的なものとの共存が常に見られる点でも独自な作家である。 |