矢代仁トピックス



小袖の文様〜その弐
桃山から江戸にかけて、小袖の文様は、その時代背景と強く結びつきながら変化し、今日の着物の文様と配置の基本となるものを築き上げました。それぞれの時代を反映した特徴ある小袖とその意匠から、各時代の小袖を「桃山小袖」・「慶長小袖」・「寛文小袖」・「元禄小袖」などと、それぞれ呼んでいます。
楽器に菊文字文様小袖
楽器に菊文字文様小袖
出典〜毎日新聞社「小袖一 鐘紡コレクション」
【寛文小袖】
江戸時代前半の寛文年間には、主として肩から右身頃にかけて大柄な文様を配し、左身頃には余白を持たせた構図の小袖が流行しました。その特徴は以下。
(1)技法は、鹿の子絞りを中心に刺繍と縫絞りを併用するものが多い。
(2)文様は、左肩から右裾へ向かって円弧を描くように表されるものや、右肩を起点として左肩および右裾方向へ展開するものが多い。いずれも左腰周辺に大きく余白を残すことを特徴とする。
(3)文様はいずれも小袖全体をキャンバスに見立てて自由に表され、その多くは大柄で動きに富んでいる。
(4)文様の素材は多彩で、植物、動物のみならず器物や文字に至るまで幅広くモチーフとされる。
(5)モチーフの選択と組み合わせにより、伝統的な動植物文様の他、文芸的な主題を象徴的に表す文様や機知的内容を示す文様などが表される。
梅樹に扇文様帷子
梅樹に扇文様帷子
出典〜毎日新聞社「小袖一 鐘紡コレクション」
【元禄小袖】
江戸時代中期の元禄の頃は、上方を中心とした町人文化の最盛期でした。その頃作られた小袖は、文様を着物全体に散らしたものや、裾から背へかけて覆うように大きな文様を配したものが見られます。寛文年間の余白を生かした美しさとは異なり、小袖全体におよぶ文様に、迫ってくるようなたくましさを持たせたものが好まれるようです。技法としてはやはり、絞りと刺繍が主でした。そして現在の着物を語る上で、なくてはならない友禅染めも、この時代に完成されたものです。自由で優美な絵画風の文様を独自の意匠と技術で表わす。このまったく新しい染方はたちまちのうちに大流行します。友禅染の出現によって、日本の染織の美はさらに豊かな成長を遂げることになりました。


季節の花ギャラリー
ダリア:矢代仁蔵書「西洋草花図譜」
ダリア:矢代仁蔵書「西洋草花図譜」
ダリア〜春、宿根から萌え出て、一メートルあまりの茎をのばし、鋸歯のある小さい葉をつけ、茎の頂きに豊麗な花をひらく。深紅・黄・白・紫など、花色もさまざまで、単弁や重弁もあり、夏から晩秋のころまで咲きほこる。メキシコ原産の多年生鑑賞花で、種類が多く、花壇に、切花に賞美される。和名を天竺牡丹と言う。もっとも普及しているのはデコラチブ咲で、その他、花弁が縦に裏側に巻込んで細長い管のようなカクタス咲、花弁が九弁前後の変った型のコラレット咲、小輪の毬咲になっているポンポン咲などがある。ポンポン=ダリアは可憐である。

歳時記より
鯉魚:矢代仁蔵書「梅嶺画鑑」
鯉魚:矢代仁蔵書「梅嶺画鑑」
緋鯉〜野生種の鯉を飼養して作り上げた品種で、鑑賞魚として夏季とする。その他白鯉・斑鯉などがある。泉水に放って愛翫し、小さなものは、金魚屋で売っている。新潟県古志郡でできる変り鯉は、錦鯉と言い、赤・黄・黒・白などを鮮明に現わし、三色のものはことに人気がある。


七月の忌日
(姓名) (忌日) (没年)
斎藤実盛 旧6/1 寿永二年(1183)
平安後期の武士。保元・平治の乱では源義朝に従い活躍。平治の乱に敗れた義朝が東国に落ちのびようとしたとき、比叡山西塔の荒法師に待伏せされたが奇計をもって欺き、脱出に成功した。その後平宗盛に仕え、平氏の荘園であった長井荘の別当になっている。1180(治承4)石橋山・富士川の合戦では、平氏の宗たる武士として源頼朝と戦い、`83(寿永2)平維盛に従って源義仲と戦うが、篠原合戦で手塚光盛に討たれて戦死した。その死装束が赤地の錦の直垂に70余歳の白髪を黒く染めてあったため、かつての同輩樋口兼光は実盛の昔話を思いだして落涙したという。
織田信長 旧6/2 天正十年(1582)
戦国・安土桃山時代の武将。(生)尾張国那古野城。信長は尾張・美濃を基盤に全国統一にのりだし、1568堺に矢銭(軍用金)をかけたりして畿内諸都市を掌握し、楽市楽座令を出して商工業者を歓迎・掌握した。さらに関所の撤廃、検地(指出)を実施し、寺院勢力との対抗上キリスト教を保護し、儒教思想を支配の理念とした。戦術としは兵農分離を進めて馬廻衆を中核とする常備軍を強化するとともに、鉄砲を組織的に利用した。`82六月、京都本能寺で明智光秀に襲われ自殺した(本能寺の変)。
最澄 旧6/4 弘仁十三年(822)
平安初期の僧。(生)近江国滋賀郡古市郷。天台宗の開祖。805遣唐留学から帰国し、その翌年天台宗を開くことが勅許された。しかし最澄はさらに真言の教義をも究めようと、`12(弘仁3)には弟子円澄・泰範とともに高雄山寺で空海の灌頂をうけた。しかしこの旧南都六宗への思想的な批判は、南都との対立を深め、やがては空海との間も疎遠となった。しかしこの対立のなかで、`18には「守護国界章」「決権実論」を書き、一乗真言・三乗方便の宗旨を強調し、さらに翌年にかけて「山家学生式」を制して、大乗戒を開くことをめざしたが、正式に大乗戒壇の建立が許されたのはその死後7日目であった。のち、`66(貞観8)伝教大師の諡号がおくられた。大師号のはじめである。
猪苗代兼載 旧6/6 永正七年(1510)
室町時代後期の連歌師。応仁の乱を避けて関東流浪中の身であった心敬に師事する。心敬の没後上京し、飯尾宗祇とも交わり、連歌師として活躍した。1489(延徳元年)、宗祇の辞任に伴い、北野連歌会所奉行・連歌宗匠となる。1494(明応3)堯恵に入門し、古今集の講説を受ける。`95宗祇を助けて「新撰莵玖波集」を編纂するが、入集句をめぐって意見の対立があった。この間。山口・阿波・関東・奥羽などを巡り、各地の大名を歴訪している。1501(文亀元年)京を離れて岩城に草庵を結ぶ。のちに会津や古河に住み、古河にて病没した。
鴨長明 旧6/8 健保四年(1216)
鎌倉初期の歌人。33歳で「千載集」に1首入集して以後歌壇で認められ、地下人ながら、1201(建仁1)後鳥羽上皇の和歌所寄人になる。新古今調の歌人として知られた。50歳で出家後、大原から日野へと遁世し、その間鎌倉に下り、源実朝に和歌を講じている。随筆「方丈記」は隠遁の生活・心境を記したもので、当時の文人隠遁者の様子をもっともよく表わしている。
恵心僧都 旧6/10 寛仁元年(1017)

明智光秀 旧6/13 天正十年(1582)
戦国・安土桃山時代の武将。(生)美濃。1558(永禄1)織田信長に仕え殊遇を受ける。`77以後丹波攻略に従事。`79八上城主波多野秀治と母を交換して和睦したが、信長が秀治を殺したので光秀の母も殺され、信長を深く恨むに至ったという。`82羽柴(豊臣)秀吉の中国征伐援助を命ぜられたが、6月丹波亀山から京都本能寺の信長を急襲し自殺させた。細川忠興・筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦い、大敗して坂本へ逃走の途中、小栗栖で農民に刺殺された。
杉山杉風 旧6/13 享保十七年(1732)
江戸前・中期の俳人。(生)江戸日本橋小田原町。松尾芭蕉に早くから従い、常に庇護者であり、弟子でもあった。芭蕉の新風開発の良き理解者であり、温情こまやかな人物であったという。芭蕉も深く信頼し〈去来は西三十三国、杉風は東三十三国の俳諧奉行〉と戯れに言ったと伝える。蕉門十哲の1人。
北山季吟 旧6/15 宝永二年(1705)
江戸前期の歌人・俳人・和学者。(生)近江国北村。祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を修めた。はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、「山之井」の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。飛鳥井雅章・清水谷実業に和歌、歌学を学んだことで、「土佐日記抄」「伊勢物語拾穂抄」「源氏物語湖月抄」などの注釈書をあらわし、1689(元禄2)には歌学方として幕府に仕えた。俳諧は貞門風の域を出なかったが、「新続犬筑波集」「続連珠」「季吟十会集」の撰集、式目書「埋木」、句集「いなご」は特筆される。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。
横井也有 旧6/16 天明三年(1783)
江戸中・後期の俳人。26歳で家督をつぎ、家禄1千石。御用人、大番頭、寺社奉行などをつとめる。1754(宝暦4)致仕して、名古屋前津の知雨亭に隠棲、風雅な生活を送った。ことに、俳文、俳諧に優れ、貞門派の祖父・父の影響をうけ、各務支考に私淑して「続五論」に共鳴、その一門の武藤巴雀・太田巴静に点を請うたりした。俳諧を日常茶飯のなかに求め、作風は俗談平話的で雑俳めいている。また俳文集「鶉衣」は著名である。
岩佐又兵衛 旧6/22 慶安三年(1650)
江戸初期の画家。俗称又兵衛。師承関係は明らかでない。画風は土佐派・狩野派・雲谷派・海北派などの影響を受けながらも、そのいずれにも偏しない独自の境地を開いたみるべきで、しいていうなら大和絵と宋元水墨画の古法に倣った大和絵新派とすべきであろう。1637(寛永14)将軍徳川家光に招かれ江戸に出て、一世を風靡した。古典的主題を選び「三十六歌仙」「源氏物語図」「伊勢物語図」など、主情豊かな作品を残した。また、「和漢風俗図」「耕作図」「合戦図」などに近世的斬新さをもつ作風を残している。
上田秋成 旧6/27 文化六年(1809)
江戸中・後期の戯作者・国学者。(生)大坂。1766(明和3)浮世草子「諸道聴耳世間猿」、`67「世間妾形気」を著わす。`70都賀庭鐘に医学を学び`75大坂で開業し大いに栄えた。この頃から古典へ傾斜して`76「雨月物語」を刊行。学問では上代研究を深めて`84(天明4)「漢委奴国王金印考」を出し、本居宣長に論争をいどんで`85頃「往々笑解」を書く。`88医業を廃し、淡路庄村に閉戸、「癇癪談」を作る。`93京都へ移り、国学研究に没頭し「安々言」「よしやあしや」「伊勢物語古意」などを出す。1804(文化1)万葉研究の成果である「金砂」「金砂剰言」が成る。
森鴎外 7/9 大正十一年(1922)
明治・大正期の軍医・小説家・評論家。陸軍軍医となり、1884(明治17)ドイツへ留学、`88帰国後、陸大・軍医学校の教官となる。`89訳詩集「於母影」を出し、雑誌「しがらみ草子」を創刊。`90小説「舞姫」を発表。翻訳家・評論家・小説家として活躍。坪内逍遥との論争〈没理想論争〉(1891〜92)によっても明らかなように、ハルトマンの美学を基調として美的な理想主義を主張した。外国文学の翻訳・紹介にも功績が多く、特に「即興詩人」は名訳として定評がある。1912(大正1)の乃木希典の殉死は鴎外に転機をもたらした。歴史小説の第1作である「興津弥五右衛門の遺書」にはじまり、「阿部一族」「護持院ヶ原の敵討」「山椒大夫」「高瀬舟」等の名作が生まれた。軍医としての公的生活と、文学者として私人として互いに矛盾する生活をいかに統一するかの苦闘が、鴎外独自の文学を生み出したといえよう。
川端茅舎 7/17 昭和十六年(1941)
大正・昭和期の俳人。(生)東京。はじめ岸田劉生に絵画を、高浜虚子に俳句を学んだが、脊髄カリエスのため句作のみに専心した。1934(昭和9)「ホトトギス」同人。闘病生活を通じて独特の句境を示した。
葛西善蔵 7/23 昭和三年(1928)
大正時代の小説家。(生)青森県。徳田秋声に師事。1920以降「馬糞石」「贋物」「哀しき父」「悪魔」をあいついで出版、私小説作家として文名をあげたが、`24日光滞在中に喀血、代表作「湖畔手記」はこうした中で書かれた。多くの係累をかかえ、常に貧窮と病苦の生活に追われた彼は親子・夫婦の愛情を捨て、世間の義理や倫理を断ち切り、生活敗北者となることで自己の文学を生かそうとした。〈破滅型の私小説作家〉といわれるが、冷静な自己凝視にはすさまじいものがあり、大正文学の特異な存在であった。
芥川龍之介 7/24 昭和二年(1927)
大正時代の小説家。(生)東京。生来病弱で感受性が鋭く、早くから書物を読みあさり、書物を通じて人生への懐疑を深めた。1914(大正3)東大在学中に菊地寛らと第3次「新思潮」を創刊。翌年「羅生門」を発表。`16「鼻」を第4次「新思潮」に書いて才能を認められ、夏目漱石の門に入る。傑作「河童」をはじめ「侏儒の言葉」「西方の人」「闇中問答」等で人生上・文学上の苦悩を追求したが、「或旧友へ送る手記」に記したような〈ぼんやりした不安〉のため、`27年7月24日自殺した。その死は知識人に強い衝撃を与えた。
明治天皇 7/30 明治四十五年(1912)
在位1867〜1912。(生)京都。1866(慶応2)孝明天皇の死にともない、翌年1月践祚した。`68(明治1)3月五ヶ条の誓文を発布、9月明治と改元、一世一元制とした。`69江戸を東京と改め、旧江戸城を皇居とした。統治権の統轄者として天皇親政の大義名分の下に王政復古を実現し、明治新政府を成立させた。`81軍人勅諭、`89大日本帝国憲法、皇室典範の制定、`90教育勅語の発布などによって、明治天皇を中心とする絶対主義的天皇制国家を完成させていった。対外的には日清・日露の両戦争や韓国併合により国権を伸張、帝国主義的大陸侵略の基礎を固めた。墓は伏見桃山陵。
伊藤左千夫 7/30 大正二年(1913)
明治時代の歌人・小説家。1900正岡子規を訪ね〈根岸短歌会〉に加わる。子規に傾倒し、歌を学ぶとともに〈明星派〉と鋭く対立し論争した。子規の死後、歌誌「馬酔木」を創刊、編集に当った。同誌は`08に廃刊され、これに代わって`09「アララギ」を創刊。編集に当たるとともに歌を作り、また歌論を書き、「万葉集」を講じて、斎藤茂吉ら多くの門下生を養成した。一方、子規から学んだ写生文から、`06「野菊の墓」をはじめ`08「春の潮」「浜菊」など26に及ぶ小説、1900「草花日記」など20篇の写生文が生れた。
幸田露伴 7/30 昭和二十二年(1947)
明治・大正・昭和期の小説家・随筆家。(生)江戸。1889(明治22)「露団々」「一刹那」「風流仏」、`90「一口剣」、`91「五重塔」などの作品を発表し、尾崎紅葉と並ぶ小説家として広く知られた。紅葉と同じく井原西鶴の影響を受けているが、特に芸術家を主人公とした作品では彼の理想主義的ロマンチシズムが示され紅葉とは対照をなした。その後、写実への傾向を強めながら観察力と表現力に磨きぬかれた才能を示し、`93「風流微塵蔵」、1903「天うつ浪」`38(昭和13)「幻談」などの傑作を残した。随筆・史伝・研究においても小説におとらぬ業績を残した。`01「諫言」、`14「洗心録」`25「竹頭」「すすき野」などの随筆集、`08「頼朝」`19「運命」`25「蒲生氏郷・平将門」や`13戯曲「名和長年」などの史伝物などが代表作として知られる。また、「芭蕉七部集」の評釈にすぐれた仕事をした。`37第1回文化勲章を受章。芸術院創設とともに会員。広い趣味・深い教養・該博な知識に基づく鋭い洞察力と洗練された文章によって多くの貴重な業績を残した。
谷崎潤一郎 7/30 昭和四十年(1965)
明治・大正・昭和期の小説家。(生)東京。谷崎文学の完成は「痴人の愛」(1924〜25)をへて「蓼喰う虫」(1928〜29)以後の昭和期の作品になる。自己の資質を生かし感性美の探求に還り、`31(昭和6)「卍」「盲目物語」、`32「蘆刈、`33「春琴抄」などの佳作を発表。プロレタリア文学の台頭にも戦争の拡大にもかかわりなく感性美の追求に生きた。「細雪」の執筆と「源氏物語」現代語訳に敗戦までの歳月が費された。戦後の代表作は「少将滋幹の母」「鍵」「瘋癲老人日記」など。
竹下しづの女 8/3 昭和二十六年(1951)
大正・昭和期の俳人。(生)福岡県。1920(大正8)32歳で吉岡禅寺洞の指導で俳句を始め、翌年「ホトトギス」に投句を始める。いきなり雑詠巻頭句に5句が選ばれるも、「俳句の主観、及び季の問題に懐疑を抱く」と言って、作句を中断。`28(昭和3)、福岡へ来た虚子と会って思い直し、俳句活動を再開した。虚子が秋桜子や誓子らの東大俳句会の俊英を育てたように、しづの女は`37長男吉らの主唱で組織された高等学校俳句連盟(後の学生俳句連盟)を支援して、機関誌「成層圏」の指導に力を注いだ。姫路、山口、関東の旧制高校の学生も参加した。`40に句集「はやて」を刊行。「作品は如何なる場合にも、作者の性格の反映である」「俳句は遍照無碍自由闊達に、主義の人生を詠うべきである」としづの女は言った。


矢代仁が出品する主な催しの予定
  日程 場所 催し名
6月 29日〜7/11 京都大丸:店内 夏物BS

30日〜7/13 東武百貨店:店内 矢代仁セール
7月 4〜5日 三越札幌店:ホテルオークラ札幌 特選会

5〜6日 美馬:岡崎六盛 逸品展

7〜10日 佐世保玉屋:店内 蔵開き

7〜13日 山田屋:シルクラブ 「なつかしく新しい御召」展

8〜12日 きく總:店内 雑呉の市

9〜10日 三越本店:新喜楽 三煌会

9〜10日 心斎橋大:店内 厳選大市

9〜10日 大阪高島屋:太閤苑 夏の豪華展

9〜10日 名古屋三越:美術倶楽部 夏の大見切り市

11〜12日 三越本店:ホテルアルファトマム 富良野ツアー

15〜17日 大阪高島屋:店内 クリアランス

19日 大阪高島屋:美術倶楽部 鼎の会

23日 美術倶楽部 鼎の会

24日 心斎橋大:ホテルニューオータニ大阪 鳳凰会

25〜26日 中村屋:織物の会 六甲山ホテル

29〜31日 岡山高島屋:店内 和ぎゃらりーBS

29〜31日 松葉屋:店内 駒宮京小紋展

30〜31日 京都高島屋:店内 特選呉服感謝市

30日〜8/4 室町二条矢代仁 比叡山薪歌舞伎ツアー




    YASHIRONI 株式会社 矢代仁
〒604-0021 京都市中京区室町通二条南入蛸薬師町272-2
TEL (075)211-2421 FAX (075)211-2428
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